第一部 むかし


もくじ

1.式次第・答辞──戦前と戦後の間
   (1) 式次第
   (2) 答辞
2.変わるものと変わらぬもの──答辞にみる松高小史

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1.式次第・答辞―戦前と戦後の間

鳥塚 義和(千葉県立小金高校)

 各学校の『校史』や『記念誌』を手がかりに、明治から敗戦にいたる時期に、千葉県内の中学校・女学校において、卒業式がどのように行われていたか、そのうつりかわりをみてみよう。

(1)式次第

 学校の儀式が定型化されたのは、1890(明治23)年前後である。前年「大日本帝国憲法」が発布され、この年「教育勅語」が定められた。学校に順次「教育勅語」「御真影」が「下賜」されるのと平行して、1891年6月、文部省は「小学校祝日大祭日儀式規程」を公布した。
 そこでは、御影への最敬礼、両陛下の万歳奉祝、教育勅語奉読、校長または教員による勅語についての演説につづき、「学校長、教員及生徒、其祝日大祭日ニ相応スル唱歌ヲ合唱ス」と規程されていた。そして、1893年には「祝日大祭日唱歌」8曲が官報に告示され、「紀元節」の歌などとともに「君が代」がとりいれられた。
 こうして、学校儀式の原型がつくられた。学校儀式で最も重要なのは、「祝日大祭日」の儀式であったが、入学式や卒業式もそれに準ずる形で、形式が整えられ、「式次第」も画一化されていった。

<資料1>1905(明治38)年 成東中学校(現・成東高)
 第1回卒業証書授与式順序
一、第一号鈴ニテ 生徒、卒業生入場
二、第二号鈴ニテ 卒業生父兄及来賓入場(職員先導)
三、第三号鈴ニテ 県知事入場(学校長先導)
四、学校長挙式ノ辞(一同敬礼)
五、勅語奉読(一同最敬礼)
六、卒業証書授与
七、褒状授与
八、学校長式辞
九、県知事祝辞
十、来賓祝辞
十一、生徒惣代祝辞
十二、卒業生惣代答辞
十三、学校長閉式ノ辞(一同敬礼)
十四、各員退場(入場ノ時ニ反ス)
              (『校史』千葉県立成東高等学校)

 この<資料1>の成東中学の式次第には「君が代」がみられない。しかし、次の<資料2>の1912年安房中学のものには、「君が代合唱」が入っている。

<資料2>1912(明治45)年 安房中学校(現・成東高)
 第七回卒業証書授与式次第
一、生徒及ヒ卒業生入場。
二、来賓及ヒ生徒父兄入場。但職員先導
三、県知事入場。但学校長先導。
四、敬礼。但楽器合図。
五、学校長式ヲ挙クル旨ヲ告ク。
六、唱歌。但君ヶ代合唱。
七、勅語奉読。
八、卒業証書授与。
九、校友会賞状及ヒ賞牌授与。
十、精勤賞状並ニ優等賞授与。
十一、学事報告
十二、学校長告辞。
十三、県知事告辞。
十四、来賓祝辞。
十五、在校生徒総代祝辞。
十六、卒業生総代答辞。
十七、学校長閉式ノ旨ヲ告ク。
十八、敬礼。但楽器合図。
十九、一同退場。但入場ノ時ニ反ス。
(『創立八十年史』千葉県立安房高等学校)

 同じ1912年、木更津高等女学校(現・木更津東高)の式場を写した写真<資料3>が残されている。『記念誌』には「卒業式と思われる」と記されている。
 手前に生徒が整列している。正面に立っているのは校長、正面に向かって左手が来賓席、右手が職員席だろう。式場の物や人の配置、並び方は雛形にそって画一化されていたようだ。

<資料3>

戦前の卒業式 戦前の卒業式会場図

註 『北海道教育史』全道編三、82頁による。

 天羽農学校(現.天羽高)では、『創立七十周年記念誌』の記述によると、1918(大正7)年の卒業式では、「君が代」を行っていないようである。そして、式次第の中に、「優等者三名の卒業論文をもとに概略の演説」いう項目があり、学業の終了を確認するという本来の意味での「卒業」式の色彩がみられた。しかし、郡立から県立に移管した後の1924(大正13年)の県立第1回卒業式では、「君が代」が歌われる一方で、卒業論文の演説は行われなくなっている。
 同じ1924年の県立山武実科高等女学校の式次第には、「君が代」に加え、「送別の歌」と「卒業の歌」が入っている。曲名が記されていないが、「蛍の光」と「仰げば尊し」であろう。
 「蛍の光」は、最初「蛍」という題で、1881(明治14)年『小学唱歌集』初編に載せられた。当初の4番の歌詞は次のようであった。
   千島のおくも、おきなわも やしまのうちのまもりなり。
   いたらんくにに、いさをしく。つとめよわがせ、つつがなく。
 大正・昭和期になると、「千島のおくも、おきなわも」の部分は、「台湾のはても、カラフトも」とかえて歌われるようになった。すでに1890年代、小学校ではこの2曲が一対となって卒業式にとりいれられていたが、女学校にも取り入れられていったようである。
 次に15年戦争期の式次第の例を示す。

<資料4> 1941(昭和16)年 銚子高等女学校(現・県立銚子高)
 卒業証書
 修業証書 授与式次第 三月二十五日午前十時
一、職員生徒着席 (第一号音)
一、来賓及保証人着席 (第二号音)
一、県知事臨場 (第三号音)
一、一同敬礼 (楽音合図)
一、開式ノ辞
一、遥拝黙祷
一、国歌斉唱 (楽音起立)
一、勅語奉読 (一同起立)
一、奉答歌斉唱
一、卒業証書及修業証書授与 (卒業生修業生起立)
一、賞状授与 (受賞者起立)
一、学校長式辞 (卒業生修業生起立)
一、県知事告辞 (職員生徒起立)
一、来賓祝辞 (職員生徒起立)
一、在校生総代送辞 (生徒起立)
一、卒業生修業生答辞 (職員卒業生修業生起立)
一、唱歌「仰げば尊し」「蛍の光」 (職員生徒起立)
一、閉式ノ辞
一、一同敬礼 (楽音合図)
一、順次退場
                             以上
     (『六十周年記念誌』 千葉県立銚子高等学校)

 「君が代」が「国歌」とされ、「仰げば尊し」「蛍の光」が入っている。宮城遙拝がおこなわれ、起立や礼の動作などがこと細かく定められているのが特徴である。
 なお、『記念誌』によれば、銚子高等女学校では、1935年頃は次のような「卒業式の歌」が歌われていたというが、この1941年の式次第には入っていない。

全  体――四方の山々霞みつつ
       花咲く春は帰り来ぬ
卒業生―─嗚呼この春に巡り逢ひ
       今日の誉をになへるは
       これぞ師の恩友の援け
       何時の世にかは忘るべき
       行く手遙けき九十九折
       如何にけわしくさがしとも
       訓へ身にしめ一筋に
       登り極めん国の為
 
在校生――学びの窓の雪蛍
       集めし功今日なりて
       輝く玉の桂をば
       手折る君こそめでたけれ
       今日を限りの別れかと
       思えばいとど名残惜し
       さはれ栄あるこの門出
       祝はざらめや勇ましく
卒業生――さらばよ
在校生――さらば
全  体――いざさらば

 では、儀式の礼法はどのようなものだったのか。
 1941年文部省は『礼法要項』を制定した。これを基にした『文部省/昭和の国民礼法』(帝国書籍協会・1941年)は、四大節(紀元節・天長節・明治節・1月1日)以外の儀式について、「皇后陛下御誕辰・皇太后陛下御誕辰を賀し奉る儀式を行う場合には、凡そ祝日に於ける儀式に準じて順序・方式を定める。遥拝式・勅語奉読式・入学式・卒業式又は記念式等学校に於ける諸儀式に就いても亦同じ」と説明している。
 この『文部省/昭和の国民礼法』の附録では、儀式における礼法について、次のように説明されている。

<資料5>『文部省/昭和の国民礼法』にみる礼法

 ……すべて学校に於ける儀式は学校長を中心として行われ、管理者とか参列者中の有志とかが訓話とか祝詞とかを行うというようなことは一切予定しないことである。参列者の祝詞などはさけ、学校に於ける式は学校長を中心として、出来るだけ荘厳に、冗漫に亘らないように行わるべき性質のものであるとされて、かく定められたのである。
 学校に於ける儀式の順序、方法に就ては、後篇の第六章祝祭日の項について、今少し注意すべきことを挙げておく。
 天皇陛下・皇后陛下の御写真の覆を撤する者は、校長・首席・その他主な教職員が之に当る。
 壇の昇降は、左若しくは右から昇降し、昇降の前後には軽く一礼する。
 壇に昇ったならば、先ず恭しく適当な位置にて敬礼をし、開扉をする。この場合余り急にしたり、滞ったりしないように注意する。開扉を終ったならば、其の位置で敬礼をして壇を降りる。而しこの場合御写真の御前を通らないように、又特に目立つようなことをしたり、軽率なことのないように注意する。
 校長は学生、生徒の前に出て、正面に向って適当な所で止まり、そこでやや屈体して慎みを表し、その儘数歩進んで最敬礼を行う。次に元の位置に引下って元の姿勢に復して或所まで後退して後元の位置に還る。
 一同は、学校長が最敬礼を行うと同時に最敬礼を行う。
 両陛下に対し奉っては別々に敬礼をしないで、一回だけ最敬礼を行う。
 次に国歌を歌うのであるが、学校では二回連続して歌っているから今日は便宜それに従ってよいと思う。
 国歌は格別の場合の外、式場に列する者全部で歌わなければならない。
 勅語謄本は、天皇陛下の御写真近くに安置することもあり、又予め奉読の場所に奉置することもあり、又式場の都合によっては、奉読に先だって外から捧持して来ることもあるので、夫々の場合によって奉読の作法にも差異がある。
 先ず御写真の近くに安置してある場合には、学校長は御写真に対して敬礼し、進んで奉置の場所に至り、小蓋のまま奉読の場所に移し、更に袱紗のある場合には袱紗をとり、謄本をとって押戴く。巻物になっている時は、右手で紐を解いて元軸に手前から上を通して巻きつけ、紐と一緒に其の端を持ち、表紙だけ巻き、次に全体を開いて奉読する。 
 奉読の前には、少し上体を前に傾けて恭敬の心を表す。謄本の高さは、拳が肩と同じ高さになる程度にする。奉読が終ったならば、謄本を巻き納めて押戴き、静かに小蓋の上に置き、小蓋を持って元の所に奉還する。
 勅語の奉読を拝聴する者は、校長が謄本を開いて奉読を始める際に、上体を前に傾けて謹聴し、奉読が終った後に敬礼して元の姿勢に復する。次に
 勅語謄本が初めから奉読の位置に奉置してある場合には、学校長は進み出て、先ず御写真に対して敬礼し、次に奉読の位置について、先の場合と同様に奉読する。奉読が終ったならば再び御写真の前に向を変えて敬礼して後、元の自分の位置に還る。また他から勅語謄本を捧持して来る場合は、正面から進んで卓子の上に置く。奉読者は敬礼をして、恭しく之を受ける。謄本を捧持した者は、一礼して退く。
 奉読が終った後には、捧持する者は前と同じく正面から進み出て、一礼の後之を捧持して退下する。
 勅語奉読も学校長の訓話も、天皇陛下・皇后陛下の御写真奉掲の位置の御前に在ってすることを避けねばならぬ。殊に学校長の訓話は、勅語奉読の場合よりもいくらか下座に定めた方が適当と思われる。
(山中恒『少国民はどのようにつくられたか』筑摩書房)

 山中恒氏は「校長は、このように詳細にきめられた作法にのっとり、天皇・国体信仰のセレモニイの司祭をつとめるのである」と説明している。
なお「最敬礼」は天皇及び皇族のみに対して行う敬礼である。同書には、「最敬礼はまず姿勢を正し、正面に注目し、上体を徐ろに前に傾けるとともに手は自然に下げ、指尖が膝頭の辺に達するのを度(約45度)としてとどめ、凡そ一息の後に、徐に元の姿勢に復する。殊更に頚を屈したり、膝を折ったりしないようにする。
[説明]この時注意すべき事はお尻を後に出さないようにすること、又殊更に頚を屈したり膝を曲げたり、顔をあげたりしてはいけない」と記されている。

  1936年 宮城遙拝
1936年宮城遙拝
  (銚子高等女学校、現・県立銚子高)
  1932年 始業式
1932年始業式
  (北条実科高等女学校、現・館山高)


(2)答辞

 答辞の内容はその時代とその社会を写し出す鏡である。そこには教育の「成果」がはっきりと示されている。まず、今回見いだせた最も古い時期のものを紹介する。

<資料6> 1917(大正6)年 木更津中学校(現・木更津高)                            
答辞

生等茲に卒業証書を授与せられ知事閣下校長先生並に来賓諸賢より懇篤なる訓諭を辱うし感激に堪へず。
顧みるに、生徒の不敏を以てして能く今日あるは実に多年薫陶の致す所恩誼深厚何の時か之に報いん。
今や母校の門を辞し各々其の志す所に向かはんとす 任重くして道遠し。
自今、愈々淬励努力常に平素の師訓と本日の高諭とを服膺し、奮って国家に報効せんことを期す
謹んで答ふ
大正七年三月十九日
                                  (『創立70周年記念誌』千葉県立木更津高等学校)

校長と来賓の「訓諭」に答えての決意表明であり、簡潔である。木更津高等女学校の1914年の答辞もほぼ同じ構成で、「修身に、斉家に唯誠意を基として、身に応じたる効をあげ」ることを誓っている。同じく簡潔。
管見の限りでは、以後しだいに答辞の文章は長くなっていく。その一例。

<資料7>1924(大正13)年 山武実科高等女学校(現・松尾高)

卒業生答辞

萌出デシ若草ノサゝヤカナ息ヅカヒ野ニ立ツ陽炎ノ姿ニ柔カナ春ノ光ノミナギル好時節ニ際シマシテ本日学窓ヨリ実社会へ鹿島立ノ私達ノ為ニ知事閣下並ニ郡長殿来賓各位ノ御臨来ヲ仰ギココニ卒業証書授与ノ盛典ヲアゲラレマスコトヲヒトヘニ感謝致シマス尚タダ今ハ知事閣下郡長殿来賓ノ方々校長先生ヨリ懇切ナル御訓辞ヲ賜ハリマシタ私達一同ノ身ニ余マル慶ビ光栄ハ何ニタトヘマセウ。
顧リミマスト私達ガ本校ニ入学致シマシテカラ最早四年ノ長キ年月ハ去リ行キマシタソシテ又私達ヲコノ学校カラ去ラセマス人事卜思ツテ居リマシタ卒業ガ期クモ早ク訪ヅレルモノデセウカメグリ来ル歳月ニハ関守モアリマセン歳月人ヲ待タズトカ古ヘカラノ格言陳腐ナガラコゝニ又新事実トナリマシテ私達ノ身ニ強迫シテマイリマシタ。
此ノ四ケ年ノ間師ノ恩ガ渥恩ノ御諭ノ数々暗澹タル原野ニ佇タズミテトモスレバマヨハントスル私達ノ行手ニイツクシミノ光ヲテラシ示シ下サイマシタ師ノ君ガ薫陶ニ私達ガ如キ愚ナ子モ過ヲ生セズ一足々々コノ複雑ナ人生ヲ辿リツゝ栄アル今日ニ遭ヒマシタ私達アゝ思ヘバ  師ノ君ガ恩恵ノ深サ真白キ富士ノ高嶺ヲシノギ底ヒ知ラヌワダツミノ海ヨリ深キニ今日ヲ限リニ年月ノ恩愛ヲ後ニ別レ出デ行ク私達コソハウレシイ一方ニ悲シミノ心苦シサハマヌカレマセン朝ナタナノ折フシハ今日ノ記念ニ思出テ母校ヲ始メ師ノ君達ノ永遠ニ幸多キラ御祈致シマセウ私達ハ殆ンドコレニ報ユル所ヲ寄ジマセンサヤウデハ御座イマスガ今後学窓ヲ離レ生存競争ノ激シイ世ノ中ニ立チマシタラ師ノ君ノ御教へ導キ給ヒマシタコトヲ身ニシメ徳ヲ積ミ益々智ヲ研キ私達ノカノ及ブ限リ勉メ励ミ時勢ノ昇潮ニ棹サシツゝ其ノ本分ヲ美化シ時代二要求サレルイハユル健実ナル精神的文化婦人トナリ実社会ニ活躍致シマシタ暁コソハ高恩ノ万分ノ一ニ報ヒ奉リマシテ今日ノ名誉ヲ永ク私選ノ身ニ添ハセルコトカ出来ヨウカト存ジマス思フ一フシヲ聞ヱ上ゲテ答辞ト教シマス
大正十三年三月二十日
(『桔梗が丘六十年史』 千葉県立松尾高等学校)

 ここではとりわけ「師の恩」が強調されている。一方、「健実ナル精神的文化婦人」という表現に大正教養主義の影響を読み取ることもできよう。
 昭和に入ると、「国のため」が強調されていく。とくに15年戦争が始まると、「忠君愛国」教育の「成果」がその文面にも表れている。次に示すのは「銃後の守り」を決意表明した例。

<資料8> 1940(昭和15)年 木更津高等女学校(現・木更津東高)

答辞

冬ごもり春さり来り鳥は啼き木の芽ふくみて天づたふ日のみ恵に浴するやよひの今日此の日知事閣下を始め多数の御臨席を辱う致しまして私達の身に此の栄ある卒業式を挙げさせられます事は拙き私どもにとりまして此の上もない光栄に存じます。先刻戴きました告辞祝辞並に校長先生よりの御懇情溢るゝ御訓辞さては本校生の皆様方の真心からなるおやさしき御送辞など今日の感激を更に新にするもので御座います。
思ひまするに此の卒業の栄誉を担ひまする事はいとも有難き聖代の御恩とは申しながら校長先生始め諸先生のかしこき御薫陶と私達を不自由なく習学させて頂きました父母の御恩とに外ならぬので御座います。顧みますれば小学校を終へたばかりの私達がさくら咲く日胸一ぱいの歓喜と希望とをつなぎながら此の学園に入学させて頂きましたのもつい先頃のやうに思はれますのに世に出づる今日の日を早くも迎へたので御座います。此の間未曾有の事変の中に三年の間を経過しましたが私達も又銃後の女性として及ばずながら諸先生の御指導の下に尽くして参りました数々の行事慰問奉仕等の事は今日の感激と共に永久に忘れ得ぬ事で御座いましてともすれば弛みがちの私達の生活も之れに依て固く引き締められ明日からは一個の社会人として新たな進路を定め自律的に心を引き結ばなくてはならぬ私達にとりまして得難い体験になったので御座います。
今や皇紀二千六百年にあたり大君の御稜威は畏くも西に東にあまねく忠勇なる将士の働きによって幾多の難苦を克服し来り新東亜建設の使命を達成すべき機運に向ひつゝあります。然し乍らその大業は困難にして複雑緊急にして遼遠真に国民の奮起を俟つ事は以前にも増して大きいのであります。私達は諸先生の御教を指針とし女性の天性を深く省みまして愈々銃後を固く守り健康を培い非常重大なる此の日本の使命を達成する為にかよわい力を捧げてゆきたいと思ひます。意義深き年に世に出づる私達はその喜と共にあらゆる苦難試練に堪へて行かねばならぬ覚悟を持って大御代の御恵に御答し諸先生の御高恩に御酬いしたいと考へます。
朝夕にむつびかはして楽しく過して来ました校友の皆様方に対しましてはお名残のかぎりも尽きませんが何卒日々に新なる修養を積まれまして一層高く本校の栄誉を輝やかして下さいませ。最後に臨みまして諸先生並に本校の皆様の御健康と本校の御発展とを心から御祈り申上げます。不束では御座いますが卒業生一同に代りまして謹んで御礼の辞を申上げます。
昭和15年3月23日
(『創立七十周年記念誌』千葉県立木更津東高等学校)

 1941年には、アジア太平洋戦争に突入した。1942年3月5日の千葉中学校の卒業式では、答辞の中で、「今ヤ皇国ハ有史以来ノ大東亜戦争ヲ遂行シツツアリ…我ガ大東亜共栄圏ノ確立茲ニ肇国以来ノ大理想ニ達成スルモ近キニアリ。此ノ時ニ当リ生等青少年学徒ノ責務ハ更ニ重且大ナルヲ覚ユ」と述べられている(答辞の原文は『侵入禁止』p.155参照)。
 戦局が悪化し、労働力が不足すると、1944年学徒勤労令が出され、中学生も工場に勤労動員された。
 1945年には、卒業式が勤労動員先の工場で行われた。在校生・来賓・父母の出席しない式だった。長生中学の生徒が動員されていた日立製作所茂原工場では食堂を会場にして式が行われた。式は宮城遥拝、君が代合唱、皇軍将兵感謝祈念、勅語奉読、証書・賞状授与、学校長式辞、工場長祝辞、卒業生答辞という順に進められた。この時の答辞は次のようであった。

<資料9>1945(昭和20)年 長生中学校(現・長生高)

答辞

維時昭和二十年三月二十八日栄誉アル卒業式典ヲ挙行セラル。誠ニ光栄ノ極ミト謂フベシ。而モ其ノ卒業式タルヤ世ノ常ノソレトハ事変リ通年動員トシテ出勤中ノ工場ニ於テ、校長先生ヲ始メ諸先生ノ御出張ヲ賜リ、工場側各位ノ御賁臨ヲ担ヒ、勤労ノ時間ヲ割愛シテ挙行セラル、トハ真ニ時局ニ徹シタル意義深キ卒業式ナリト謂ヒツベシ。
今ヤ戦局益々緊迫シ襄ニアッツ、サイパン等ノ玉砕アリ。近クハ硫黄島将兵ノ最後ノ総突撃アリテ、仇敵本土上陸ノ憂無シトセズ、吾等均シク敵撃滅ノ神機到来ニ具ヘテ一意戦力増強ニ邁進シツツアルノ時、而モ敵機来襲執拗ヲ極メ、吾等ノ頭上顔前ニ於テ爆弾投下、機銃掃射ノ暴挙ヲ見ル。真ニ吾等ノ総蹶起ヲ要望スルノ秋ニシテ、今日起タズンバ又何レノ日ニカ起ツベキ時アランヤ。
此時ニ当リテ吾等目出度卒業ノ栄ヲ担フト雖モ、従来ノソレノ如ク春風駘蕩等ト情緒纏綿タル甘露ニ酔フベキ余暇ヲ持タズ。直ニモーター、ハンマーニ取付キ皇国護持ノ大任ヲ全フスベキ秋ナリ。
神風特別攻撃隊員ハウルシノ港湾ニ突入シ肉弾以テ敵大型航空母艦数隻ヲ轟沈シ仇敵ヲシテ震駭テシメ皇国作戦ヲ有利ニ転換セシムル壮挙ヲナシタルニ、「吾等ノ行為ハ特攻ニハ非ズ。皇国臣民ノ当然ナスベキ責務ナリ」ト言ヘリ。真ニ然リ。実ニ然リ。吾等ハコノ神ノ如キ言葉ヲ心トシ、今日ヨリ以後国家ノ要望ニ対ヘ工場ニ止マリ、鋭意戦力増強ニ邁進シ、宿敵米英撃滅ノタメ誓ッテ敢闘センコトヲ期スルモノナリ。
(『創立百年史』県立長生高等学校)

 いたましい。ここにかつての軍国主義教育の到達点を見ることができよう。戦後民主教育がなぜ「教え子を再び戦場に送るな」というスローガンをかかげたのか、原点に立ち返って、今一度歴史に学ぶ必要がある。
 では戦後、卒業式の形式・内容は変革されただろうか。「御真影」「教育勅語」こそ姿を消したとはいえ、「日の丸・君が代」は残り、「儀式は学校長を中心として行われ」、厳粛であることを求められ、起立・礼をくりかえすなど、戦前とそのまま連続した面が多かったのではないだろうか。原因は政府の教育政策だけでなく、それをよしとする教員の意識にも求めることができるだろう。
 だからこそ、1970年前後、学園紛争の時代に卒業式も批判の対象とされたのだろう。高校生が卒業式の存在そのものを批判したのは、唯一この時期だけのようだ。
 次に紹介する<資料10>のビラは、1969(昭和44)年、東葛飾高校で卒業式の始まる直前にまかれたもの。「政治の季節」真っ只中の高校生の意識をよく表している。以後、東葛高校では、学園改革にとりくみ、服装の自由化、「自由研究」の時間の創設、自由掲示板の設置などが実現した。
 また、同じ時期、県立銚子高校に在学していた生徒が、卒業後、当時の高校生活と卒業式改革、そして卒業式当日のようすを記した回想記を『記念誌』に寄せている。<資料11>として掲載する。

<資料10> 1969(昭和44)年 東葛飾高校でまかれたビラ

我々は今こそ子羊の従順さを自ら打破しなければならない。本日の、晴れ(?)の卒業式は、まさに我々が権力への従順さを自ら肯定し、そしてそれを権力の末端によって認められることを意味するものだ。「従順さ」、それは我々のあらゆるものに対する疑問を圧殺し常に権力によって操作される主体性なき主体であり、何ら自覚的でないことなのである。の従順さを我々の行動面だけでなく、精神面にまでも浸透させ我々を完全に鈍化した「もの」にする為、権力機構の末端として教師は三年の間空々しくも「生徒指導」の名のもとに我々の人間主体性を無視し圧殺してきた。それに対し我々の不満を表わすささやかな行動についても、彼らはそれを理解しようとする徴塵の寛容さも示さず、ティーチングマシンとしての無責任さか、管理者としての押しつけの態度を示すだけであった。即ち我々の高校生活には言論、集会、表現の自由があまりにも許されていないのだ。彼らの欺瞞はこの卒業式に象徴的に表わされている。日の丸、権力者による祝辞――の全てに我々三年間の「従順さ」と彼らの「成果」が凝縮されているのである。今こそ我々は全てに対して疑いの目を向けなければならない!我々 は明確に自覚せねばならない。いかに我々がたくみに飼いならされてしまっ
た小羊であるかを! そして今、我々は「何をなすべきか」を自覚し、新しい学校、新しい歴史、そして新しい自己を創造する真の主体となるべきである!
 さあ諸君! この卒業式を我々の「従順さ」との断絶の契機として把握し、彼ら権力から我々の感覚そしてその主体性をとり戻そう!
1969年3月10日 卒業生有志
(東葛飾高校教師集団『改革の炎は消えず』高文研)

<資料11> 1970年 県立銚子高校の卒業式

 …(略)…新聞、テレビ等のマスコミが、学生問題を連日のように報道していたころ、私達のヤングパワーも様々な面において表面化されてきました。皆、社会について、非常に興味をもちはじめたようです。意見発表会での発言の内容も、HRのミーティングの内容も、ベトナム戦争、沖縄問題、安保条約、学生問題など、政治的なテーマがその大部分をしめていました。しかし、私達が、あまりにも、社会の悪い面や、生活における悪い面ばかり指摘するので、批判の上手な現代っ子といわれたのも無理はないと思います。その批判の上手な私達の批判は、とどまるところを知らない道のように、次々につづいていきました。「橋のない川」や「ひとりっ子」等の映画を、すすめられるがままに見、忍者武芸帳やカムイ伝をクラスで購入してまわしよみをしたりしました。
 やがて生徒会を中心として、自主的な体育祭、文化祭が行なわれました。また、生徒心得委員会を設け、時代にそわない校則の改正が大幅になされました。そして昭和四十五年三月十日。私達の卒業式。前の年あたりから、マスコミにより各地の卒業式ぶちこわし騒動が報道されていたのもひとつの原因になってか、卒業式のあり方について、大分話し含いをし、その改善方法を検討しました。与えられた送辞、答辞を、臨席した父兄の前で、選ばれた人が読んで聞かせるという、従来の、形式を重んじた方法は、一も二もなく反対され、文面は起草委員会によりねられ、生徒が選んだ代表により読まれました。「君が代」も歌わないことになりました。これだけ改善した卒業式にまだ不満をもつ人も、二、三人おりました。
 しかし、卒業式は例年の半分以上も時間を短縮して、スムーズに終わりました。ところが、私達が教室に帰ってから、在校生の送辞をめぐって、PTA会長さんの発言があり、私達も加えて、二時間にわたって臨時生徒総会が開かれ、会長さんとの烈しいやりとりが行なわれ、忘れることのできない幕切れとなりました。
(『六十周年記念誌』千葉県立銚子高等学校)

*卒業式等に関する古い資料がありましたら、委員会までご一報ください。

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2.変わるものと変わらぬもの─答辞にみる松高小史

吉田昭彦(千葉県立松戸高等学校)

 先日の拡大中央委員会で、日の丸君が代対策委員から卒業式の答辞集」を作りたいので協力してくれとの申し出がありました。その主旨は、それぞれの職場で多彩な教育実践があり、答辞はその集大成と見ることができる、新旧の答辞を集めて実践を振り返り、時代を客観視したい、とのこと。なるほど、私は生徒会関係で答辞に関わってきたけれど、歴史的資料という観点は持ったことがなかった。伝統校松高には古いのがあるんじゃないか、ということで探してみました。するとなかなか興味深いテーマが浮かび上がってくることが分かり、素人の筆者なりにアイデアをまとめてみました。
 まずは古いものから見てみます。後半の謝辞部分は割愛して、前半部を中心に引用してみます。

〈資料1〉1953(昭和28)年3月7日卒業式・答辞 (字句原文のまま、句読点段落引用者)

 陽春3月のよき日今日晴れの卒業式に臨む私たちの胸には万感交々迫るものがあります。思へば希望に胸をおどらせて松戸高校の校門をくぐったのは3年前でありました。
 去年までの卒業生は途中から男女共學の制度になった為まだいく分の遠慮もありましたが私たちは中學1年よりこの制度の下に訓育せられた為に何のへだてもなく本当に明朗な愉しい學生生活を送ることができました。秋の文化祭運動會その他の學校行事には生徒會員として男女各々その特性をいかし一心一体となって協力しあひ共學の醍醐味をしみじみと味わったのでありました。秋の修學旅行もまた終生忘れ得ぬ思ひ出であります。天平勝宝の夢を秘めて時の興亡の中にしずかに生きつづける古都奈良を尋ね歴代の都として山紫水明の賞詞をほしいままにしている京都を訪れ或いは歌枕に名高い淡路の島に渡っては月の海べに旅情をうたったあの数々の旅の思い出は若き日の美しい夢の一駒として永く胸底を去らぬことでありましょう。
 今や終戦後8年を閲し社会的な混乱状態は一応おさまったとはいうものの新しい日本の原動力たる青年の思想言行は確たる目標を得ていてそれに向かって努力するまでには至っておりません。新しきものに向かっての正しい情報性と新しき物を無批判に崇拝する雷同性との区別を忘れた浮華軽佻の風が又自由と権利を主張して義務と責任を忘れた利己的な思想が私たち若い人達の中に絶無であるとはいい切れません。
 ひるがえって世界情勢を見るに第2時世界大戦は終結したとはいへ暗雲いまだ去りやらず世界人類全体の平和は中天の月の如き感があるのであります。この時に当たり世界唯一の希望は次代を背負う私達青年であると思います。私達には何がなくとも若さがあります。若さとはあらゆる物を生み出す力消える事のない生命の力であります。又若さとは一切の汚れざるもの清潔な意志の力であると信じます。私達の生一本なひたむきな若さをもってすこしでも住みよい世界を作る為に黄金の釘一本を真けんにうちこみたいと思ひます。
 かく私達は新しき門出に勇んでいる反面亦人の子の常として別離の情のそくそくとして迫るのを如何ともなし得ません。しかし人生は別離あるが故に新しき道がひらけ別離の感傷をふみこえてこそ更に高い境地に生きることが出来るのだと思ひます。3年間やさしくお導き下さった先生方いろいろありがとうございました。先生方の御慈愛により本日只今螢の光の合唱の中に新しき門出をする事が出来る私達は何といってその御鴻恩にお応えしていいか分かりません。…(略)…
1950(昭和25)年度入学・1952(昭和27)年度卒業生、現在63〜64歳

〈資料2〉1969(昭和44)年3月10日卒業式・答辞 

 草の緑も萌えいでて弥生の空の柔らかい日ざしと共に3年を過ごさせていただきましたここ松韻台にも春の訪れが俄に感じられるようになりました。そして私達は惜別の情もたちがたくこの松戸高校を今日巣立ってまいります。
 思えば高校生活への憧れを胸に抱きつつ乾いた白い坂道を登り緑うるわしき松韻台に第一歩を印しましてからはやくも3年の歳月が過ぎ去り、私達の過去の全てが今は思い出になろうとしています。本日は私達のためにこのような盛大な卒業式を挙行していただきまして本当にありがとうございました。
 未来への期待もさることながら数多い思い出にしばらくひたっていたい私達でありますことをお許し下さい。暖かいうららかな春の光の中でまどろみ語りあったこともございました。またスポーツに若さを発散させた爽やかな初夏の日の楽しい一時にまた夜空のロマンの星空に旅をした天体観測に秋は鈴虫の音に感傷的な乙女心を動かしもしました。凍てついた冬の朝も忘れて内外情勢に議論の花を咲かせたこともございました。思い出とは申せ私達にとって再び来ないすばらしい高校生活そして人生の一頁を本日ここに築かせていただきました。卒業式に臨んで私達はこの喜びを胸に秘めながらも思いはやはり3年間の数多い思い出へと浸っていく私達ですがただ今の校長先生の御訓辞また来賓の方々の御祝辞に改めて身もひきしまる思い出ございます。
 かえりみますと私達の学校生活の出発点はちょうど校舎の完成期にあたりまして多くの先輩が経験なされた不自由な生活も実感としてよみがえることもなく5月には移転新築落成式をこの体育館で迎えました。続いて松韻会館の完成に胸をときめかし翌年には弓道場が開かれまた昨年の夏には念願のプールも完成され私達の高校生活を更に豊かなものにして下さいました。松韻会館での合宿も水しぶきをあげての競泳も私達には忘れることのできないすばらしい貴重な体験でした。そしてともすればこの恵まれた環境に甘んじてそれを十分に生かすことすら考えず、怠りがちで未熟な私達でございましたが校長先生をはじめ諸先生方の御好意溢れるあたたかい御指導により楽しく有意義に過ごさせていただきました。そしてうかつにも本日までその御好意に甘えて何一つできなかった私達は今改めて悔いております。
 しかし私達の前途には未知の世界が広がっておりまた無限の可能性も待っていることと信じております。本日まで御指導下さいました校長先生をはじめ諸先生方の御厚情にお応えできますよう若い力を尽くして頑張りたいと思っております。…(略)…
1966(昭和41)年度入学・1968(昭和43)年度卒業生、現在47〜48歳

 この頃の答辞はいずれも和紙に達筆な毛筆で書かれていて、当時の社会情勢や松高の状況を反映している内容共々、現在とは大分異なります。にもかかわらず私が印象的に感じたのは、実は基本的には今も大して変わっていない、という点です。儒教的な「師の恩」をやや大げさに述べつつ、文化祭体育祭修学旅行などの行事をまず「学校生活の思い出」としてあげる(うるわしき学校生活)。若さをそれ自体素晴らしいものとして礼賛する(若者万歳)。自由とわがままの混同を少々嘆いてみせる。これらのステレオタイプ(定型)的学校観が終戦後間もない昭和20年代後半には既にできあがっていた、ということがみてとれます。戦前からの学校制度あるいは学校の風景に戦後的な理念をそのままポンと移植してできたようなこの学校観が戦後50年に渡って学校教育を呪縛してきたことは、筆者にとって驚きですらあります。
 また〈資料1〉と〈資料2〉は高度成長期を含む16年間の開きがあるのですが、さほど変わっていません。歴代の答辞が代々受け継がれていたようで、毎年似たようなセリフが繰り返されています。田舎の伝統校」として平穏な日々が続いていたのでしょうか。
 さて、残念ながら〈資料2〉で紹介した1969年春の答辞を最後に、その後しばらくの分が見あたりません。次のものは1977年。1979年以降のものはかなりあります。これらを見ると、'50〜'60年代のものとはずいぶん異なっていることが分かります。まず気づくのは、その体裁の変化です。以前の和紙に毛筆という定番に替わり、レポート用紙に厚紙表紙を付けたもの、修正だらけの鉛筆原稿をそのまま提出したものなど、大分ラフになり、形へのこだわりが薄れてきたことが見てとれます。
 こう言うと、答辞自体の内容も薄くなってきたように思うかも知れませんが、事実は逆です。〈資料3〉は歴代の答辞の字数(概算)をグラフにしたものです。1980年代に入ると字数が非常に多くなる。大雑把に考えて答辞に込められた思いと字数が比例するとすれば、1980年代前半は特筆すべき何かがありそうです。

〈資料3〉*90、91年は上映をまじえた複数人数によるものなので単純比較できない
卒業式答辞の字数の変遷
 それではこの時期の答辞の内容を見てみます。いずれも長い文章なので典型的な部分のみ引用します。なお、この頃から「答辞」に替わり、「卒業のことば」と呼称されるようになりました。

〈資料4〉1980(昭和55)年3月10日卒業式・卒業のことば

 …(略)…1977年4月7日、あの日はあいにくの激しい雨でした。しかしあこがれの明るい紺の制服にはじめて手を通し、「今日から松高生なんだと緊張と期待と不安にうちふるえながら迎えた入学式。あの時の胸の高鳴りは今でも忘れることはできません。シーンと静まりかえったホームルーム、全く見ず知らずの新しい友におそるおそる話しかけたあの時のときめく思い。…(略)…
 計画表とガイドブックを片手に慣れない京都の街を一日中グループで歩き回った修学旅行10年ぶりに校内に歌声を響かせることが出来た合唱祭、練習場確保のためにいつもより2時間も前に登校した球技祭、土煙の中髪をふり乱して力を競い合い、声が出なくなるまで応援合戦をくりひろげた体育祭、クラスや部の研究発表、ステージでの熱演を楽しみ、テーマや文化祭の意義について真剣に考えた松高祭、自己との戦いともいうべきロードレース大会など、そんな中での輝いたみんなの目、光る汗、うれし涙とくやし涙、それはまさに青春の証ともいえる純真さそのものでした。…(略)…
1977(昭和52)年度入学・1979(昭和54)年度卒業生、現在36〜37歳

〈資料5〉1984(昭和59)年3月10日卒業式・卒業のことば

 …(略)…私達が一人一人自由であるが故の苦しみや喜びを強く感じたのは2年生の修学旅行でした。コースや行動も全て自分達で決め実現させたいわば手作りの旅行だったために、とても思い出深い素晴らしいものになりました。しかし反面、いろいろなハプニングもありました。京都におけるグループ行動で道に迷い、あれ程遅れないように注意された門限を2時間も遅れてしまった時など、自分の行動に責任を持つことの難しさを知り、またそんな時でさえ私達を信じて夜の外出を許可して下さった先生のやさしさに感動しました。それに対して私達も裏切ることなく行動できました。そんな信頼関係をドラマのようだとおっしゃった先生もいらっしゃいます。…(略)…
 特に広島での一日は私達にとって貴重な体験になりました。フィールドワークでは先生方の綿密な準備や御指導の上に養護ホーム、ABCC、碑巡り、似島と各班がまとまり研究しました。(略)想像を絶する事実のむごたらしさに衝撃を受け、それまでうんざりしていたはずの話や資料に私達の目はひきつけられ、聞き入りました。8時15分で止まった時計。変形したツメ。石段の人影。そして爆発の瞬間を見てしまった黄色い目。どんなに戦争の悲惨さを知識として身につけたとしても、どんなに心を打たれたとしても、戦争の実態はつかみきれないものだと痛感させられた旅行でした。…(略)…
1981(昭和56)年度入学・1983(昭和58)年度卒業生、現在32〜33歳

 注目すべきは、'50〜'60年代のものと比べると、同じく学校生活の思い出を述べていても、その描写がより具体的で詳細であり、より個人に引きつけた形で文章が展開するという点です。これらは当時の学園ドラマ風青春万歳、乙女チック少女マンガなどの定型の学校生活イメージを再生産したものとも解釈できます。言うなれば「個人的な学校生活」がすっかり市民権を得て、答辞のリアリズム主義とも言うべきものができたのがこの時期の特徴です。'50〜'60年代の答辞は前年の言い回しががそのまま踏襲される例が多く、同じような台詞が毎年繰り返されています。その意味では誰がしゃべっても内容的には同じで、むしろ卒業式にふさわしい格式が重視されていたのでしょう。それに対し、1980年代に入ると、その年その年で内容が全く異なり、演者の「個性」に全面的に依拠しています。
 実は〈資料4〉や〈資料5〉はこの時期としてはかなりおとなしい内容のものです。この頃の卒業のことばには、定型的な学校イメージの枠をはるかにはみ出した、私的個人的な告白劇に近いものも見られます。

〈資料6〉1981(昭和56)年3月10日卒業式・卒業のことば

 …(略)…その時考えたことは、義務教育ではないのだから、学校をやめることはいつでもできる。だから、耐えられなくなるまで精一杯やってみようということでした。そして、この女子校という雰囲気の中に決して埋もれまい、そのために、ひとつでいい、高校生活で打ち込むことのできる何かを見つけようと思いました。これが松高に入学した当初の私の決心でした。あの頃の私は、社会、学校、そして女であるという自分自身にさえ、反感を持っていたように思われます。
 それから3年間私は夢中でした。何に対して夢中であったのか、今になっても私にはわかりません確かに部活に対しても委員会に対しても、私は一生懸命でした。ただ、それ自体に対してではなく、何かもっと別のものに対して、私は夢中であったように思われます。私が夢中であったこの何かわからないもの、そんなものを、少なからず、人間はみな持っていると思いますそれが人によってさまざまなかたちで現れようとも、何かに夢中である人の顔を見ていると、私には何か共通するものがある様に思われてくるのです。特に何かに熱中している先輩や友達の顔を見ていて、私はそう思いました。夢中であるときの顔、何かを求めている眼、そして顔全体から感じられる輝き、その気迫、美しさは、どんな言葉を使っても、正確にはいい表せません。私はその夢中であった自分自身が、そしてその瞬間、瞬間がとても好きです。中でも松高祭前の忙しさの息詰まるようなあの思い、私には一生忘れられません。松高祭の成功のみが頭にある毎日でした。忙しいことに喜びを感じました思いつくことは何でもやってみました。これが本当の私であったらいい、こうしていつまでも夢中でありたい、そう思い続 けてきました。…(略)…
 私は、私の運命を変えてやろうと思いました。…(略)… もう、運命であろうとなかろうと関係ない、私は私のやりたいことをやる、そう思った時、新しい世界が開けたように思いました。こんな経験を何度か繰り返しながら、私は松高で夢中になる事ができる何かを追い続けてきたように思います。そして今日卒業する360人が、皆そうした何かをどこかで求め、心の奥に辛さ、苦しみの歴史を刻んできたのだろうと思うのです。…(略)…
 しかし、自由はどちらの方向を向いた自由だったのでしょうか。その中で私達は常に限界まで行き着こうとしていたでしょうか。ひたむきになれる何ものかを持っていた人も、何もやり残すことなく松高を卒業できると、今日この場で声を大にして言うことができるでしょうか。今の私が自信を持ってそう言うには何かが足りません。私達は卒業するには、あまりに多くのことを松高に残して行くように思えてなりません。自由とは、好きな事を好きなふうにやる自由や、何もしないで過ごす自由であってはいけないと思うのです。…(略)…
 3年間が何であるか、ここまで来てもまだはっきりは見えてきません。ただ、ここまで生き、考え、悩み、苦しみ、夢中になって歩いてきた私があるだけです。(略)この3年間の喜び、悲しみ、苦しみの全ての歴史を心の中に刻み込み、それエネルギーとして歩いていかれそうな自信のようなものも、今胸の中にわき上がってきます。…(略)…
1978(昭和53)年度入学・1980(昭和55)年度卒業生、現在35〜36歳

〈資料7〉1982(昭和57)年3月10日卒業式・卒業のことば

 ぶかぶかの制服を着て、真新しい上履きをはいて、不安げに教室に入って行ったあの日から、はやくも3年が過ぎようとしています。
 私はこの3年間のうちに、友達や両親やそして先生方の愛情というものをしみじみと感じ取ることが出来ました。大変個人的なことになってしまいますが、私は2年生の夏に、再生不良性貧血に似た重い貧血にかかりました。つめも唇も真っ青になり、頭痛と目まいで、走ることもできないほどでした。そしてそれからの検査は本当につらいものでした。骨髄の検査では、胸の骨に穴をあける為に何本も麻酔を打ち、その痛さには思わず涙がこぼれるほどでした。ひんやりと冷たい検査台にあおむけになった私の目には、厚いガーゼがかぶせられ、あまりの痛さに泣きあばれる私の両手両足を4,5人の看護婦さんに押さえられ、また涙があふれたこともありました。…(略)…
 「就職合格祈願」と…父の字でした。後で聞くと「親なんてこんなことしか出来ないから…」とやさしく笑いを浮かべていました。…(略)…18年前、この世に小さく頼りない姿で生まれたのに、こんなにも立派に育ててくれた両親。父がいて、母がいて、そして私が存在する、という事実に私は言葉にならない感動を覚えました。…(略)…
1979(昭和54)年度入学・1981(昭和56)年度卒業生、現在34〜35歳

〈資料8〉1983(昭和58)年3月10日卒業式・卒業のことば

 無情なときの流れと言うべきでしょうか。それとも私自身のこの3年間、本当に生きてきたという証を立てることができないからでしょうか。今こうして別れの言葉をここで述べると言うことは、つらくてもどかしいばかりです。
 思えば松戸高校での3年間は私にとって本当に苦しい3年間でした。その苦しさが何によるものなのか、はっきりと整理できない自分の弱さが腹立たしかった。本当につらかった。朝目がさめるときまって吐き気が私をおそうのです。…(略)…変化なく過ぎ去っていく刺激の少ないマンネリ化した日々への連続に腹立たしさが増すばかりか、何か大声で叫びたくなるようなことがしばしばありました。甘えと怠惰と妥協がはびこるこの女子校の中で、私自身もその一人として存在することのいらだたしさは表現のしようもありません。大きく揺れ動いている社会の中で、こんな状態ではいけない、これではいけないと思い生徒会活動を手がけてもみました。しかし平和で平凡な松高をもっと激しく揺さぶろうと決意した私に何が出来たでしょうか。いざ実行に移そうとするときの自分の行動力のなさ、無責任さが悔やまれてなりません。からまわりしているだけの自分に情けない思いがつのるばかりであり…(略)…
 (離婚した母に対して)やはり弟は母が恋しかったのです。今の今まで母のことを口にしなかったのは、お母さんと一言つぶやくだけで、今までこらえてきたものがバラバラと崩れ落ちてしますような張りつめた思いでいたのでしょう。…(略)…何が仕事だ、何が自分の幸せだ、子供の身にもなって欲しいと、と大声で叫んでやりたかった。しかしそのことも冷静になって考えてみれば、働こうとする女たちが置かれている現実の社会というものがどんなにか矛盾をはらんでいるものであり、いかにつらいものであるかという証拠にほかなりません。…(略)…
1980(昭和55)年度入学・1982(昭和57)年度卒業生、現在33〜34歳

 筆者がこの研究を始めたとき、まず目についたのはもっぱら'50〜'60年代の答辞です。和紙に達筆な毛筆で、格調高い惜別の言葉が麗々と述べられている。まさに隔世の感であり、それに比べると70年代末期以降のものは体裁も悪く、文章も未整理で、正直あまり興味がわきませんでした。ところが読み込んでいくうちに、自己を激しく切開しながら、思春期の動揺する自我に激しく迫っていくこれらの答辞にすっかり魅了されてしまいました。卒業式という舞台演出に少々舞い上がった面もあるでしょうが、当時はやった言葉で言うアイデンティティー確立の逡巡が赤裸々に告白されています。部分的な引用では伝え難いのが残念ですが、例えば〈資料6〉では毎日自己を燃やし尽くすように生きながら、果てしない循環にとらわれてしまうことへの激しい焦燥が、まるで彼女の3年間がそうであったと言わんばかりの、グツグツと煮えたぎるような文体で書き抜かれています。〈資料7〉では病気の克服という極めて個人的な体験が述べられてます。そして〈資料8〉に至っては、仕事を選んで離婚した母親への心理的葛藤、そこから引き出される女性の自立と社会の矛盾という問が、のたうちまわるよう 文体で激しく告白されています。これなどは一般的な卒業式の答辞のイメージをはるかに離れて、まるで心理的カタルシス劇を演じているが如くです。筆者には10数年の歳月を越えて、当時の彼女たちのオーラが、まるで引力と斥力を併せ持った強力な磁場のように紙面から放出しているように感じられました。
 卒業式という極めて公的な場にも関わらず、以上見てきたような卒業のことばが述べられたということは驚くべきことのように思います。彼女たちのことばは当の式で、どのように受け取られていたのでしょうか。当人の3年間をよく知る友人や教員にとっては、感動の告白劇だったかも知れません。卒業式を乗っ取った如くの一人舞台の過剰な饒舌と酔心に辟易し、反感を持った生徒もいるかも知れません。どちらにしても、そこは当たり障りのないお決まりの儀式ではなく、1回限りの激しい、生きた場であったことが推測できます。そして当然そこには、卒業式におけるこのようなパフォーマンスを認めた(あるいは奨励した)教員集団が存在したことでしょう。
 1980年代の松高は、これら卒業のことばに垣間見られるように、いわば生徒個々が全面開花した時代だったようです。またその背景として、卒業のことばにもあちこちで登場するように、戦争と平和、女性の自立などの社会問題を積極的に採り上げた教員集団の実践、そして何より教員集団が日常、意識的無意識的に生徒に送っていたであろう「自主自律」のメッセージを読みとることができます。現在にも受け継がれる松高の伝統=自由」は、もちろんそれ以前からの伝統もあったにしろ、この1980年代前半に大きく開花し定着したもののようです。
 さて、'50〜'60年代の答辞から'80年代の卒業のことばへと大きな変化があったことを、まずは松高」という枠の中でみてきました。ところが、ここでもう少し視野を広げて、当時の高校が置かれた全体状況の中でこれらの変化をみると、さらに興味深いことになります。それでは、この頃がどんな時期であったか、概観しておきましょう。
 戦後一貫して全国規模で上昇し続けた高校進学率は1975年についに90%を越えて頭打ちになります。'60年代からの高度成長は第1次、第2次石油危機を経て低成長に移行し、1次産業から2次、そして3次へと産業構造の急激な変化、これに伴う都市化、核家族化、地域共同体の崩壊といったさまざまな戦後的変化も1970年代なかばにはほぼ完成します。若者の状況を見ると1970年前後の学生運動は急激に冷め、替わってマンガ、アニメ、ポップス音楽、車、バイク、スキーなどさまざまなサブカルチャー、若者レジャーが咲き乱れ、例えばサザンオールスターズの歌に代表されるような、恋愛遊戯に興ずる享楽的な若者たち(いわゆる新人類)が主流派になります(筆者は1978年千葉県公立高校卒業でこのような世代の先駆け、あるいは旧世代の残党に当たります。つまり組合に大勢入った最後の世代です)。このような方向は1980年代後半のバブル期に引き継がれ、現在の高度消費社会へと連なります。また1980年代前半はいわゆる校内暴力」の嵐が吹き荒れ、情熱派の「金八先生」がもてはやされたりした時期でもあります。千葉県の公立高校は1975年頃から10年間、新設校ラッシュの時期に入り、1979年の第1〜4学 区で9校をピークに毎年次々と高校が新設され、そのほとんどはいわゆる底辺高」として、大量採用された若年教員が投入されます(この辺りの経過については筆者の「大変な学校の研究/坂道1996年1月18日号ほか」をご参照下さい)。
 このような状況と対比してみると、1980年代前半の松高は、県立高校全体が揺らぐ中、レベルの高い女子生徒が集まる伝統校という条件を利して、束の間の花火を打ち上げていたに過ぎない、と言う少々意地悪な見方も成り立ちます。そういう面も確かにあると筆者も思いますが、むしろこの時期は公立高校(あるいは単に学校)自体が大きく揺らいだ時期であり、その具体的表現の松高版が本稿で述べてきたような事態であったと考えます。この頃は、伝統校であろうと新設校であろうと、学校は過激な逸話であふれていた。生徒も教員も今と比べて、悪く言えばアナーキーで混乱していたし、良く言えばカオス的な生き生きとしたエネルギーにあふれていたのだと思います。
 1980年代前半の激動の正体を正確に語りきるのは大変難しいことです。ですが、あえて大雑把に言ってしまえば、戦後一貫して増大してきた「個」あるいは私が、学校という公の制度と激しく衝突し、やがてこれを食い破っていくプロセスであると考えます。エリートである大学生の起こした学生運動の「糾弾、「変革路線と異なり、より大衆的な存在である中高生の反乱は泥臭いゲリラ戦として、制度の現場(教室、授業)を食い荒らし、コケにし、無化する路線を採りました。興味深いのは、学生運動世代の教員が当時、現場の中堅となり始め、学校への私」の侵入をむしろ歓迎した節があることです。進学校伝統校ではこれを逆手に取り、生徒会活動の自主自律など「個」の組織化を目指す実践を展開していったようで、1980年代前半の松高の状況は、まさにこのような場合の好例であると解釈できます。しかし残念ながら多くの底辺校がそうであったように、生徒の持ち込む私と学校の公は平和共存できず、「管理強化」という学校側の巻き返しが始まり1990年代に至ります。
 ともあれ答辞の変遷から、1980年代前半こそが大きな松高のエポックであることが分かりました。そして当時の全体状況と合わせて見るならば、戦後の学校現場の特筆すべきできごとは、学生運動ではなく、この1980年代前半の激動であることも推測できるのです。今回〈資料〉として取り上げたいくつかの卒業のことばは、単に演者のパフォーマンスとしてだけでなく、熱き学校の遠い想い出を語っているように私には感じられるのです。

 最後に現在、すなわち1990年代の卒業のことばを見てみます。

〈資料9〉1991年3月卒業式・卒業のことば

 …(略)…
 ジャンスカのすそからのぞく赤ジャージやめられませんこれが松カジ」
 「赤ジャージみんなで着れば恥もなし」
わが3年生のポイントの一つは、やはりあの目のさめるような赤ジャージです。一人でいても目立つのに大勢いるときのあのすごさ! それにしても校内で着ていると全然平気なのに、学校から一歩でも出ると、とても恥ずかしいのはどうしてでしょう。…(略)…
 「昼休みもうかる前店増える体重」
 「やせたいと思っているけど無理みたいだって外出りゃ前店だから」
私達の一番楽しいひと時、昼休み。その平和な時間を確保するために、購買前店は松高生の戦場と化します。もちろん戦利品はパン、ジュース、お菓子。…(略)…
 「松高生登る坂道登山並み」
 「寒い中自転車こきこき通う道学校着くなり鼻水ビー」
松高までの通学路は良くも悪くも坂が多いのは、みなさんも知っていることと思います。
 …(略)…
1988(昭和63)年度入学・1990(平成2)年度卒業生、現在25〜26歳

 ここには、大時代的な青年の気概」や「わが師の恩」はもちろん、その数年前の仰々しい告白劇も、気恥ずかしいような青春万歳もありません。3年間の想い出が、爽やかに軽妙に、いわば等身大のものとして語られていきます。しかし述べられる内容以上に、そのやり方の変化にこの時期の最大の特徴があります。すなわち、式場を暗くしてスライド写真を上映しながら、複数の代表者が練習してきた演出に沿って語ってゆきます。学校生活のさまざまな場面を素材にした川柳や、インタビューをうけた担任教員のアドリブなどをまじえて、会場の出席者全員が楽しめるような工夫が凝らされています。ここにみられるのは、卒業式を一種のイベントに仕立ててしまおうという指向です。学校行事のイベント化は1980年代後半から現在までの学校に特徴的な傾向です。典型例は文化祭ですが、学校行事の祝祭性と遊園地的あるいはテレビ番組的な娯楽性が結びついた、現代的な学校文化の表れです。昨今話題になった小金高校、埼玉県立所沢高校などの卒業式入学式問題も、多くの生徒にとっては学校自治という政治的社会的な権利主張がメインテーマなのではなく、自ら企画したイベントを成功させたい、 お客(参加者)を楽しませ、主催者も楽しみたい、という商業娯楽戦略に近い感覚なのだと思います。進学校の場合、学校行事という立て前とうまく連結するような知的粉飾をこらして、これらイベントを企画運営するだけの能力知力があるので、世間的に見てもなかなか見事な出来映えになるのですが、逆に底辺高の場合はひどくみすぼらしい結果に終わりかねません。松高では現在でも、スライド上映とセットになった卒業のことばが卒業対策委員会により行われていますが、文化祭その他の学校行事と同じく、年々エネルギーが落ちているようです。
 1990年代以降の卒業のことばをみて注意すべきは、語られる内容にせよ、イベント風の形式にせよ、そこに突出した個人が登場しないことです。戦後一貫して強調された個人の尊重、1980年代前半の松高であそこまで飛び出した個人はどこに行ったのでしょうか。「一人の個人として自立せよ」という戦後的なメッセージに沿って、1980年代前半には個人が学校を大きく揺るがすまでに至った経過を本稿ではずっと追ってきましたが、皮肉なことに現在の高校生はむしろひとり人前に立つことを嫌がるようです。服装の逸脱を見ても、全員ルーズソックスにミニスカートという見事な統一ぶりです。互いを個として尊重し合うような人間関係の形成が大層苦手であることは、イジメ問題などに典型的です。 1980年代前半まではどんなに反抗的な生徒にとっても、学校という枠組みが厳としてそこにあると感じられていたのでしょう。個人が激しくぶつかり、ときに敗北しては再び個人を磨き直す契機になるような制度としての場が、かつての地域共同体やガンコ親父の代わりにそこにあったのだと思います。教師の評価はどうあれ、生徒は学校で激しく生き卒業していった。しかし、個人「自我などと内的整 合感統一感のある知的な主体をこそ尊重したかったのに、1980年代以降学校に急激に侵入したのは個人に付随するもっと情緒的あるいは生理的な欲望のようなもの、いわば公に対する「私性とも言うべきものです。「楽しいのが一番」というイベント娯楽指向でありながら、そのイベントを企画運営するだけの組織力がなく、反抗はしないがズルズルと逸脱してゆく生徒を見ると、かつて学校が夢想した手応えのある芯を持った「個人」自我」ではなく、茫洋と拡散した私性のみが肥大しているように感じます。この急激な私性の侵入に耐えきれなかった学校制度は一気に陳腐化し、現在生徒大衆の持ち込む生活感覚と「学校的な立て前」はまるっきりすれ違っています。「話せば分かる人」を大量生産するはずだった学校は、今や「話しても分からない人」のお世話に追われています。しかし学校以外の行き場は今既になく、新しい学校制度は未だできていない現状の下で、大多数の生徒にはそこそこマジメな子としてイジメ関係の周りをうろうろするか、コギャルとして街を浮遊するかくらいの選択肢しか見えないのもやむを得ないのでしょう。

 答辞を素材に県立松戸高校の歴史を追ってきましたが、そこには戦後日本50余年の歴史が見え隠れすることが分かりました。そこには戦後民主主義の輝かしい成果と予想外の失敗が合わせて読みとれます。また21世紀に向けて、学校の制度改革は必至であり、実は現在こそ学校にとっての過去最大の激震期の始まりであることを感じさせてくれもします。そこでわれわれは、「個人」自我「私」「公」といった古くて新しい問題をもう一度問い直さなければならないでしょう。

(本稿は県立松戸高校分会新聞「坂道」1998年6月1日号、6月8日号に筆者が連載した記事をまとめたものです。)

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