ひのきみ通信 第242号

2024年3月31日



都教委包囲・首都圏ネット 総決起集会(2.12 文京区民センター)

目次

第三次大戦の危機と
 『素数の音楽』から学んだこと
千葉高退教・渡部秀清
今は昔・・・ T.T.0623(ひょうたん島研究会)

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第三次大戦の危機と『素数の音楽』から学んだこと

千葉高退教・渡部秀清

(1)

 2月末からパソコンが不具合になり、半月以上メールの送受信ができなくなりました。その間、朝日新聞の書評に載っていた『素数の音楽』(マーカス・デュ・ソートイ著、冨永星訳)を読みました。この本では、自然数上にランダムにある素数がどのように散らばっているのか、またなぜそうなるのかについて、これまで多くの数学者たちが苦闘してきたことについて述べてありました。その中に以下のようなことも述べてありました。
 2000年、当時の大数学者ドイツのヒルベルトは、パリ・ソルボンヌ大学で開かれた国際数学者会議で、まだ証明されていなかった23の問題について、「新世紀の数学の探検者たちに挑戦状を叩きつけた」。その中の8番目に選んだのが<リーマン予想>を証明することでした。この予想は、19世紀後半にドイツの数学者リーマンによって、素数の散らばり具合について、複素数(実数+虚数)の考えを入れて出されたものでした(この予想は現在でも証明されていません)。

(2)

 ところで、「第7章 ゲッティンゲンからプリンストンへ 数学者の集団移住」には次のようなことが述べてあります。

 1933年には、ドイツ中の数学者が数学に集中しにくくなっていくのを感じていた。ゲッティンゲンの図書館の上を、ナチスの鍵十字をつけた飛行機が飛んでいた。数学科にはユダヤ人や左翼の学者が多かったことから、通りでは、特に「マルクス主義の砦」である数学科に焦点を絞った街頭宣伝が行われた。そして30年代半ばには、数学科のほとんどの人間がヒットラーの大学弾圧によって職を失い、その多くが海外に逃れることとなった。・・・
 それでも事態は悪化した。1933年の冬になると、ランダウの講義はナチスの学生たちに監視されるようになった。・・・ある日、ランダウが階段教室に入ろうとしたところ、熱狂的なナチ党員であるタイヒミューラーが通路を塞いでいた。そしてランダウに、あなたが解析学を紹介するそのユダヤ的なやり方は、アーリア的思考法とは根本的に相容れないといった。ランダウは圧力に屈して職を辞し、ベルリンに戻った。・・・
 その年、ユダヤ人とは何の関りもなかったジーゲルは、数学科の評判を救うべく、フランクフルトからゲッティンゲンに移った。しかし1940年には、悲惨な戦争への抗議として、自ら進んでアメリカに亡命することを決めた。・・ジーゲルは、戦時下の日々をプリンストンの高等研究所で過ごすことになる。ゲッティンゲンの偉大な評判を作り上げた数学者のなかで、ドイツに残ったのはヒルベルトただ一人だった。・・・
 ヒットラーは、ガウスやリーマンやディリクレやヒルベルトがうち立てたゲッティンゲンの偉大な伝統をほんの数週間で打ち壊した。ある人物によると、「ルネッサンス以来人類文化が経験した最大の悲劇のひとつ」だったという。ゲッティンゲンが(人によってはドイツ数学界が、というかもしれない)、30年代のナチスドイツによる破壊から完全に復興する日はついに訪れなかった。ヒルベルトは、ゲッティンゲンの古びた通りで転んで複雑骨折をおこし、1943年のセント・バレンタインの日に息を引き取った。ヒルベルトの死は、ゲッティンゲンが数学のメッカだった時代の終わりを告げるものだった。

(3)

 そのヒルベルトは、それ以前、第一次大戦後はじめてドイツ代表団が参加した1928年のボローニャでの国際数学者会議で、次のように述べていたのです。

 民族や人種などを理由に差別を行うのは、われわれがたずさわる科学を誤解しているからで、このようなことが行われてきた理由は実に卑しむべきものである。数学に人種は関係ない。・・・数学にとっては、文化的な世界全体がひとつの国なのだ。

 また、この本では、冷戦たけなわの1970年ごろに、アメリカの女性数学者・ロビンソン(51歳ころ)とソ連の22歳の男性数学者マティヤセヴィッチによって、ヒルベルトの第10問題(決定問題)が解かれたドラマチックな話も紹介されています。

(4)

 現在、日本では教育現場に対する国の管理統制が非常に厳しくなっています。公立の小中学校では、戦争のシンボルであった「日の丸・君が代」の強制が強められ、職員会議での挙手採決は禁止され、主任制などの職階制度が強化され、教科書検定も強化され、国の「教育振興基本計画」に基づく業績評価が徹底され、すべてはトップダウンの国家主義教育になってきています。この傾向は大学でも同じであり、大学の自治を支える教授会は機能せず、学長まで実質的には国の任命制になってきています。研究や教育内容も国が予算を背景にトップダウンで決めるような状況になり、それに従わない教授たちは排除されるようになってきています。2020年に起きた「学術会議任命拒否問題」はその典型です。
 こうした動きは、上に紹介したナチスによる教育統制を思い起こさせるものです。それでも当時のドイツ人の多くはナチスを支持しました。そうして戦争に敗れて初めて自分たちがいかにひどいことをやったのかを自覚したのです。当時日本の多くの人々も国家主義教育で洗脳され、戦争に駆り出され戦地でひどいことを行いました。また自らも大きな被害をこうむりました。そして、戦前の過ちを反省した平和憲法が制定されました。しかし、現在、世界は、2022年に始まったウクライナ戦争、2023年に始まったイスラエルのガザ侵攻などにより、諸矛盾が激化し第三次大戦に向かいつつあります。岸田政権も、「平和憲法」をないがしろにし、戦争準備に邁進しつつあります。そうした中でこの本は、私たちはどう生きるかを考えさせてくれる本でもありました。私たちは歴史に学び、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないように」しなければならないでしょう。「教え子を再び戦場に送るな!」が戦後の出発点でした。共に闘いましょう。

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今は昔・・・

T.T.0623(ひょうたん島研究会)

 今は昔、『1・2の三四郎』という漫画があった。『週刊少年マガジン』の連載漫画で、作者は小林まこと。プロレス・ギャグ漫画である。

 先日夕方、旧国鉄の船橋駅前を通った時、あるグループの若者たち(ぼくと比べれば・・・だが)がビラ配りを終えたところであった。
 そのグループ、シンボルカラーがオレンジらしく、皆さん、その色のユニフォームを着ていた。
 ぼくは駅前ビルの2階に向かうエスカレーターに乗って振り返って彼らを見たのだが、ちょうど記念写真を撮ろうとするところであった。
 その時、彼ら・彼女らが発したのが、「1・2の・・・」。
 最初に書いたとおり、彼女ら・彼らは若い。彼ら・彼女らの「1・2の」の後が「三四郎」であるはずはない。続けて発せられた言葉は、「さ・ん・せい・とう」、「参政党」の人たちだったらしい。

 「参政党」については、実はよく知らない。知ってることは、選挙になると多くのオレンジ集団が駅頭に集まること。疑問に思うのは、あれだけの選挙運動、多くの資金が必要だろうなあ?ということ。
 参政党にはそんなに多くはなさそうだが、自治体議員もいるらしい。そして、そういう議員の中には、議会で「歴史改竄発言」を繰り返す人もいるようだ。
 ぼくの中では、「駅頭で見る”軽いノリ”の若者たち」と「歴史改竄主義者」とは、ストレートには結びつかないのだが・・・・。

 「1・2の」に話を戻す。漫画でいえば、『1・2のアッホ!!』なんてのもあった。こちらは『週刊少年ジャンプ』の連載、作者はコンタロウ。これも、ギャグ漫画である。

(2024/03/13早朝)

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