ひのきみ通信 第204号

2017年2月18日



「つながろう 子どもの未来のために
憲法と子育て・教育を考えるつどい」
(16.12.10 千葉大学)

目次

日教組全国教研(新潟市)
 「平和教育分科会」報告
石井 泉(天羽高校分会)
改めていま『教室から戦争がはじまる』 渡部秀清(千葉高退教)
「既視感」たっぷりの2017年 T.T.0551(千葉高教組市川
 支部「ひょうたん島研究会」)

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日教組全国教研(新潟市)

「平和教育分科会」報告

石井 泉(天羽高校分会)

 2月3日(金)〜5日(日)の三日間、新潟市で日教組第66次教育研究全国集会が実施された。千葉高教組の参加は2名(教文部長・レポーター)。約3000人が参加した初日の全体集会では、主催者挨拶を日教組委員長でなく岡島真砂樹委員長代理(実行委員長)が、来賓挨拶は神津連合会長・米山新潟県知事が、基調報告は千教組出身の清水書記長が行った。記念講演は、山口二郎氏(法政大学)が「民主主義と政治教育」のテーマで、「ウィナーテイクオールの経済」「不満の刺激と憎悪の動員」「建前を公然と否定する社会」「和辻哲郎『風土』(公共への忍従)」「安倍政治を支えるミーイズム(対沖縄・福島)」等について講演し、非常に勉強になった。
 午後は24分科会に分かれ、私は社会科教育分科会で條冬樹先生(千葉北高校分会)のレポート「『はじめての選挙』参議院選挙をテーマとした討論参加型授業」発表を見守った。生徒が選挙公報や新聞記事などを調べて「ティーンズ選挙公報」を製作・プレゼンを行い、政策討論や模擬投票を実施し、当事者意識を育てる主権者教育である。共同研究者の友常勉さん(東京外語大学)は「政策討論まで持っていったのは素晴らしい。生徒が『白熱教室』のように考えを深めている」と評した。他に印象に残ったのは、兵庫県教組(中学校)の発表だった。憲法9条を生徒が自分の言葉に言い換えた文を廊下に掲示、全員が9条条文を暗記し発表、毎回の定期考査で意見300字を記述させる等様々な取組だった。討論の中でも、「多数決で決めて良いのか?」「討論では教員が少数派の立場でガンガン発言」「生徒が意見を自由に言える授業作り」「被害者との共感(当事者意識)」など重要な問題提起がたくさんあった。
 2・3日目は平和教育分科会に参加した。私は2010年全国教研(山形)で「日の丸・君が代」問題に関する授業実践レポートを拒否され(前年に東京根津さんも同問題レポート拒否)、その後8年間、この分科会に参加し続けている。従って、第一の関心事は「日の丸・君が代」問題である。気づいたことやそのほか印象に残った発言等を紹介する。

 2月4日夜には、新潟市クロスパル新潟で第18回自主教研「日の丸・君が代」問題全国交流集会が行われ、8都府県から43名(千葉は私と條さん)が参加した。今年も多摩教組の長谷川さんの司会のもと、呼びかけ人の山田真さんや北村小夜さんの元気な挨拶、続いて大阪や東京を始め全国各地から「日の丸・君が代」問題に関する闘いが報告され、地元新潟の被処分者の会からの報告もあり、互いに交流を深めた。終了後の交流会も盛況で、うまい料理と酒を楽しみながら再会を誓い合った。
 全国教研は、日教組本部はもちろん全国からのレポーターが集い、多くの研究者も集まる。マスコミや右翼からも注目され、日教組が発信できる貴重な機会でもある。平和教育分科会の動向を今後も注視したい。また、全国教研は三日間全国の仲間とレポートや討論を学び合う非常に有意義なチャンス、全国に知り合いを増やす貴重な機会である。必ず、教員として一回りも二回りも大きく成長させてくれる。是非とも来年以降、新しい多くの仲間を連れて全国教研や自主教研に参加できるよう宣伝に努力したい。

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改めていま『教室から戦争がはじまる』

渡部秀清(千葉高退教)

 2月5日東京で、第13回目になる『2・5総決起集会』(主催:都教委包囲首都圏ネットワーク)が開かれ、117名が集いました。
 集会では、元東京都の教員・北村小夜さんが「改めていま『教室から戦争がはじまる』」と題して講演されました。北村さんは91歳になりますが、当日朝まで新潟での日教組教研に参加され、駆け足で東京に戻られて講演してくださいました。

 北村さん(1925年生まれ)は、「今は、私が育った時代と同じような状況になっている」と述べ、当時の資料を参考に多くの事を語ってくれました。
 まず、「昭和18(1943)年3月31日発行の『写真週報』(情報局編集)に大きく掲げられた<時の立札>というものを紹介されましたが、そこには次の言葉が書かれていました。

 「校門は営門に通じてゐ(い)る
  学生生徒の生活もそのまゝが
  戦ふ(う)国家の一分野
  逞しい上にも逞しく
  若い力と意志とを捧げて
  必勝の道を邁進しよう」(漢字は当用漢字にしました)

 そして次のように述べました。「この年は学制が変えられ5年生が4年生になった。早く兵隊に行かせるためだった。自分が女学校の時代、勉強をしていなかった。工場で兵隊の服の修理をやらされていた。当時まだ大正デモクラシーの雰囲気が残っており、親や教師は疑問や批判を持っていた。しかし子どもたちはそうした親や教師をまどろしく感じた。当時、もう少し大人がしっかりと子どもたちに教えてくれれば良かった。今も同じだ、子どもたちは小学生の時から『日の丸・君が代』で入学式卒業式をしており、それが当たり前になっている。」

 その後、2016年の言葉として、イギリスのオックスフォード英語辞書が「Post-truth(ポスト真実)」を選んだことを紹介され、同時に二つの短歌(科学者・歌人の永田和宏氏作)も紹介されました。
  <不時着と言い替えられて海さむし言葉の危機が時代の危機だ>
  <Post-truth他所事ならず無表情に衝突と言ひて去りゆく女人>
 そうして、次のように述べられました。「現代の『嘘がまかり通る時代』を糾すには事実を示し続けるしかありません。リテラシー(読み書き能力)をつかさどる教育の役割がますます重視されます。」

 その後、北村さんは≪軍国少女のへの道≫と題して以下のような話をされました。

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 まず、<軍国少女への道 〜その1>」です。
 『少年倶楽部』(1937・5)に載った「日本もし戦は(わ)ば」に、世界地図上で、
・日本の所に銃剣に「正義」の旗を掲げる日本兵、・ロシアの所に銃剣を持つロシア兵、
・中国の所に青竜刀を持つ中国兵、・アメリカの所にピストルを持つアメリカ兵、
が対峙している絵が載せられているのを紹介し、次のように述べました。
戦争には『嘘と監視』がつきものです。真実を教えてくれる人がいなければ子どもは従っていきます。・・これ(絵)を見た幼い私は、なぜだかわかりませんが、正義の日本が狙われていると理解しました。」
 そして、彼女が小学校就学直前の1932年、第一次上海事件で爆弾三勇士(彼女の故郷の久留米市の工兵隊から出征)が戦死し、その功を讃える旗行列(回覧板で回る)がありましたが、家の人は参加するつもりはありませんでした。しかし当日に町内の世話役のおじさんが束にした「日の丸」の小旗を抱え回ってきたとき「お嬢さんだけでいいですよ」と言って彼女に旗を持たせたので、彼女はおじさんについて旗行列に参加したそうです。おじさんは彼女を高く抱えて旗の波を見せてくれたそうです。
 北村さんは言いました。「上から見る旗の波は美しく私の心がそそられます。すっかり日の丸に魅せられてしまいました。軍国少女の始まりです。年始に、ふと宮中参賀のニュースを見て、この大きな旗の波、上からはどう見えるのだろうと考えます。」
 また、彼女は1925年生まれですが、「その年に『治安維持法』ができ、すでに物が言えにくくなっており、子どもが何か疑問をもったりすると、大人は<シー>と指をたてた。今も同じことが起こりつつある。大人の役割は大事だ。」とも述べられました。

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 次に、<心と体が国に奪われる 軍国少女への道 〜その2(心)>からです。
 戦争をするためには国民の逆らわない心と丈夫な体が必要です。私が小学校で学んだのは1932年ー38年で日本が戦争に向かう時でいたが、大正デモクラシーの名残もありました。教えてくれた先生たちもすべてが戦争推進派ではありませんでしたが、子どもたちは日に日に軍国少年少女に育っていきました。・・どこの学校にも奉安殿が出来、御真影・教育勅語への敬意の表明を厳しくしつけられました。修身の時間は天皇の赤子として生まれたことのありがたさを教えられました。・・
 綴り方の時間には満州の兵隊さんへ慰問文を書き、図工では戦車や飛行機を描いたり模型を作ったりしました。・・・四大節(一月一日、紀元節、天長節、明治節)には、奉安殿から運ばれた御真影の前で君が代を歌い厳かに読まれる教育勅語を聴き講和があり式歌を歌いました。いま都教委が強制している卒業式は御真影を日の丸に代えてこの形を模しています。
 ひたすら皇民教育を受けるうちに、戦争は天皇の宣戦布告に始まり講和条約締結で終わること、戦争には日本が勝ち領土が広まることと覚えました。そして「天皇陛下の為に命を投げ出すこと」こそ最高の善だと思うようになりました。それでも子どもです。忠孝一致と言われても、楽はしたいし、欲しい物は欲しい、親孝行どころか親を困らせることもたびたびで、忠義などできそうにありません。深入りしてはいけないことのようですが、「現人神」という天皇は人間ではないのかなどなど、折々に悩みました。
 ということで彼女は先生に、「修身の本に書いてあることはみんな本当のことですか?」と聞きました。先生は驚いたようで「本当に決まっています。そんなこと考えて勉強していたの? がっかりした」と言われました。私は即座に「ウサギとカメもですか?」と聞きました。担任先生が黙ると隣の組の若い先生が「みんなが親孝行で、みんなが忠臣だったら教科書には載らないよ」「親孝行してもらいたいから、忠臣になってもらいたいからだよ」と言ってくれました。途端に長年の疑問が解けたような気がしました。・・でも重ねて「誰が?」と聞くと「それは自分で考えなさい」と言いました。今考えるとよく言ってくれたと思います。
 でももう一歩踏み込んでくれていたら私の生き方は違っていただろうとも考えます

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 次に、<軍国少女への道 〜その3(体)>です。
 戦争準備は国民の体力づくりからです。1928年昭和天皇の大典の記念行事としてラジオ体操がはじまり、1930年には「日本一健康優良児」表彰制度(1976年まで)がスタートします。今は学校表彰だけですが、全国の小学校6年生から各校男女1名ずつ選び、その中から県知事が各1名県代表として選び、その中から日本一を決めます。成績優秀で家庭も健全でなければいけません。
 1938年には厚生省が出来ます。同年にできた国家総動員法はいざという時国家は物的人的資源を自由に調達できるというものですが、厚生省はその人的資源を担当しました。
 1939年には「産めよ増やせよ国のため」という標語が出来ました。そして1940年の「国民体力法」です。1条に「政府は国民の体力の向上を図るため、国民の体力を管理する」とあるように一人一人の国民の意思に関係なくその体力を検査してその向上にかかる必要な措置をするというものです。健康増進法は十分にその機能を持っています。
 私が小学校を終え県立高等女学校を受験したのは1938年でしたが、突如入試制度が変わり口頭試問と体力検査で筆記試験がなくなりました。入学してもスカートを穿くことは少なく普段はセーラーの上着にもんぺ(錬成服と呼んでいました)を穿いていました。それを自分で勇ましく感じていました(「得意になる」とも話されました)。・・体育には薙刀(なぎなた)がありました。袴を着けて薙刀を持つともうそれだけで献身奉公・攻撃精神が心身にみなぎるように感じました。
 戦後、GHQの指示によって軍国主義的教育が払拭され、武道の授業は禁止されました。それが復活するのは1949年の中華人民共和国の成立、1950年の朝鮮戦争等を契機にアメリカの対日戦略の変更によるもので、1950に柔道・1951に弓道、1953に剣道と順次正式に学校体育の教材「格技」として再登場しました。さらに、卒業式等で国旗の掲揚と国歌斉唱の指導を指示し国家主義的な道徳教育の強化を図る1989年改訂学習指導要領で中・高の保健体育の「格技」を「武道」に改めました。

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 最後に北村さんは、次のように述べました。
 「国策・国威発揚にはいつも子どもが狙われます。学校教育は勿論ですが、あらゆる手段で。少年倶楽部は特集を組みました。たくさんの写真を載せ奮い立たせるような文章を添えられていました。入場式の場面には『秩父宮殿下から賜った大日章旗を先頭にひるがえしたわが代表選手・役員171名が、威風堂々入場してくる光景をご覧ください。皆さん、この写真をじっと見つめていると、瞼が熱くなってきますね。』といった具合です。ジーンとこないと日本人じゃないみいな書き方です。それに輪をかけたのが以下のサトウ・ハチローの詩などです。」
1932年7月、ロサンゼルスオリンピック陸上三段跳びの場面の放送を聞きながら

(『 』内は現地からのアナウンス)

『一等南部忠平君(日本) 記録は15メートル72、オリンピック並びに
世界新記録。二等スヴェンソン・・・・』
 もうどうでもいい、スヴェンソンも何もあるものか、南部が勝ったのだ、
勝ったのだ。
『いま、するするとマスト高く日章旗があがりました』
バンザイ、僕だって唄うぞ君が代を、君が代を。
『つづいてスエーデンの旗、次に又日本の旗、南部、大島両君は、
直立不動ビクトリー・マストの日章旗を仰いでいます』
僕は目に浮かぶ、同胞の歓喜のさまが、歓呼の声が。
優勝した南部は、何百というカメラにかこまれた。トーキー会社は南部を
カメラの前に立たした。
『どうか一言おっしゃって下さい』
南部は何と言ったか。
『只今、南部忠平優勝いたしました』
 この言葉をよく聞け諸君、この言葉は南部が、いかに国を愛しているか、
いかに陛下のよき民であるかをはっきりとしめすものである。
『只今、南部忠平が優勝いたしました』
誰に報告しているのであろうか。
天皇陛下へである。そうして、日本国民へである。
そうして、その後に大きな声で
『日本万歳』と言ったそうである。
南部!!! 僕の南部、日本の南部、世界の南部、僕は君を愛する。
僕は君の友情と優勝に感謝する。僕は日本の詩人として、
君の美しい友情と優勝を、讃美歌となすつとめを持つた。

1932、少年倶楽部10月号、南部の優勝を聞く  サトウ・ハチロー

 そして次のように結ばれました。
 「この手は今も子どもたちに向かってしきりに使われています。すでに届いています。子どもたちはすでに前に進んでいます。大人が嘘の何倍も正しいことを言わなければならない。」

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「既視感」たっぷりの2017年

T.T.0551(千葉高教組市川支部「ひょうたん島研究会」)

 今は昔、ウッドストック・コンサート(1969年8月)にも参加したバンド=クロスビー・スティルス&ナッシュが、ニール・ヤングも加えて作ったアルバムに、名作『デジャ・ヴ』(70年3月)がある。「デジャ・ヴ」というのが「既視感」を表すフランス語だということを、中学生だったぼくは、その時、初めて知った。
 2017年初頭の現在(いま)が「既視感」たっぷりの時代であることを、今回は書くことにする。ただし、「既視感」=「一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じること」らしいので、以下に書くことは「既視感」の誤用となるみたいだが・・・。

 2017年の今、『日刊ゲンダイ2/10号』のコラム「日本経済/一歩先の深層」欄で、高橋乗宣が、「軍国化への分岐点となる日米首脳会談/『緊密な関係』に名を借り」と題して、次のように書いている。

 トランプ大統領の筋金入りの米国第一の考え方は、就任から3週間で世界中が嫌というほど思い知らされた。貿易は完全な保護主義政策で、日本の為替政策についても「金融市場を利用した通貨安誘導だ」と批判している。まるで鎖国に走りかねない、と国際社会が手を焼く大統領にノコノコと会いに行き、「親密な関係」を呼びかけるのだ。安倍首相は季節外れの”飛んで火に入る夏の虫”となりかねない。

 手土産を持ってゴルフをやりに行く安倍のことを「朝貢外交みたい」と評した文章をどっかで読んだような気がするが、手元の資料を探したが、見つけることができない。
 でも、昨日2/11に古い新聞を片づけている時、2015年の『日刊ゲンダイ10/1号』を見つけてしまった。そこでは、コラム「永田町の裏を読む」で、ジャーナリストの高野孟(はじめ)が、「属国化を喜んで受け入れ、血税まで捧げる朝貢外交」と題して書いている。
 このタイトル、2017年の今回の訪米にそのまま使えそうなのが、「面白い」と言うか、「恐ろしい」と言うか・・・。

 もうスペースがなくなってしまったので、昔(2015年)のことだけ書く。
 9月29日(火)の『日刊スポーツ』社会面。ジャーナリストの大谷(おおたに)昭宏のコラム「フラッシュアップ」の小見出しは「父祖が守り育てた土地を他国に差し出す・・・世界でほかにあるだろうか」。ウ〜ン、2017年の現在(いま)、そのままだなあ・・・。
 10月2日の『日刊ゲンダイ』。「注目の人・直撃インタビュー」のゲストは水島朝穂。見出し(一部省略)は、「見過ごせない制服組の暴走が始まっている/国民が知らないうちに戦争国家になっていく/能力的に最弱の政権が最強の権力を振りかざす」。ウ〜ン、モロ2017年そのままだなあ。こんな状態でいいのかなあ?
 最後は、学校関係。9月29日(火)『朝日』の「社会面」。記事のタイトルは、「授業萎縮の恐れも/18歳選挙権〜指導書、制約多く」。その中にある次の記述。

 生徒に一定の影響力を持つ教員は、特に選挙の争点になるような問題では対立する主張を同時に教えることが求められる。だが、そうした授業は難しいと萎縮し、現実の問題を扱わない教員が出る可能性もある。

 これもモロ「2017年的」だが・・・。「触らぬ神に祟りなし」とか、「触らぬ安倍に祟りなし」とか言っていてもしょうがない。そこを突破することこそが必要だと、軟弱なぼくでさえ、思っていたりする。

(17/02/12未明)

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