![]() 「安倍政権NO!☆0322大行動」 (2015.3.22 日比谷野音) |
「君が代」斉唱口元チェックの大阪府中原教育長の辞任と 2014年度卒業式の闘い |
渡部秀清(千葉高退教) |
「民主主義を取り戻せ! 安倍政権NO!3/22大行動」雑感 |
T.T.0531(千葉高教組市川 支部「ひょうたん島研究会」) |
沖縄スタディーツアー(辺野古・高江訪問)報告記[2] 〜『標的の村』の現場と不屈館〜 |
石井 泉(天羽高校分会) |
(1)
3月11日、大阪府の中原教育長が辞任しました。彼は、橋下大阪市長の大学時代の友人で、橋下氏が府知事時代、公募で2010年4月より府立和泉高校の校長となり、全国最年少校長(当時)の誕生などと報道されました。そして、2012年3月の卒業式では、大阪府「君が代」条例に基づき教職員が実際に歌っているか教頭らに教員の口元をチェックするよう指示し、大きな批判を受けました。しかし、橋下市長は「素晴らしいマネジメント」だとして彼を評価しました。
2013年春、大阪府教育長に就任した彼は、橋下市長や松井府知事の指示のもと、トップダウンの教育行政を進めようとしました。ところが、他の教育委員や教育委員会事務局職員とぶつかり、その度にパワハラを繰り返すことになりました。
2014年10月には、「認定こども園」の定員問題(3〜5歳は「25人以下」(それまでの大阪基準)とするか「35人以下」(国基準)とするか)で、女性教育委員が「35人以下」に引き上げる府条例改正案に反対し、「母親の立場としてより少人数が理想だと思う。ウソは言えない」と伝えたところ、中原氏は、「目立ちたいだけでしょ」「誰のおかげで教育委員でいられるのか。知事でしょ」「罷免要求を出しますよ」などと言いました。女性委員がこれを暴露したため、彼のパワハラ問題が表面化しました。
その後、弁護士3人による調査チームが立ち上げられ、2015年2月に『調査報告書』(第1次〜第3次)が出されました。それにより、女性教育委員や府教委職員(4人)らに対する中原氏の「パワハラ」が認定されることになりました。
ところで、女性教育委員や府教委職員へのパワハラで共通しているのは、彼が、安倍政権が掲げる「教育再生」の具体化の問題で、パワハラを振るっていることでした。
A氏は<府下全中学校を対象に統一テスト(チャレンジテスト)導入とそれに関わる予算>に関することで、B氏は<府立高校入学試験へのマークシート導入に要する費用>に関することで、C氏は<教職員の人事評価制度(相対評価)>に関することで、D氏は<小・中・高での英語教育改革>に関することで、それぞれパワハラを受け、特にD氏は退職に追い込まれました。
その『調査報告書』を受け、3月2日には府議会野党が中原氏の辞職勧告決議案を提出、10日には大阪市と堺市を除く府内41市町村教委が「毅然とした対応」を求める要望書を府教委に提出するなどした結果、中原氏は辞任せざるをえなくなりました。それでも、松井府知事や橋下市長は中原氏をかばい続けました。それは、中原氏があくまでも「維新の会」の方針に沿って安倍「教育再生」の先兵としての役割を果たそうとした、と評価しているからです。しかし、今回はその先兵が大阪の人々の反撃に会い、あえなく討ち死にしたわけです。もちろん口元チェックなども吹き飛んでしまいました。
(2)
安倍政権は沖縄の民意を公然と踏みにじり、辺野古沖の埋め立て工事を強行しつつあります。また集団的自衛権と武力行使を容認し、「後方支援」の名のもとに自衛隊を地球上のどこにでも派遣しようとしています。2014年度卒業式での「日の丸・君が代」強制反対闘争は、こうした安倍政権による戦争準備が急ピッチで進行する中で闘われました。
東京では、都教委包囲首都圏ネットワークが約60校の高校などに、「卒業生・在校生・教職員、保護者の皆さん 誰にも立たない、歌わない自由があります。」というビラをまきました。(他にも、「板橋の会」、「練馬の会」、「大田区民の会」、「多摩西部市民の会」なども卒業式ビラまきをしました。)
私も数校のビラまきに参加し、他の参加者からも状況を聞きました。その中で気づいたことの第一は、学校により対応がかなりまちまちになってきたということです。そして、多くのところでは、かなり緩やかになってきました。「生徒にまかないで下さい」などと言う学校は少なくなりました。警察を呼ぶような学校も少なかったと思います。安倍政権の動きが危険なものになってきているので、管理職も少しは考えるようになったのかもしれません。あるいは、このビラまきは2004年春以来毎年続けているので、当たり前になりつつあるのかもしれません。
第二は、逆に安倍政権の戦争準備政策に積極的に加担しようとしていると思われるような学校も一部にありました。その最たる学校は都立某高校でした。詳細は省略しますが、ここは学校も警察も全くひどい対応でした。憲法違反もいいところです。これに対して包囲ネットでは、近く弁護士を立てて、双方に抗議行動をする予定です。
第三は、教員は学校の中では「学習指導要領」に縛られ、政府が決めたことしか教えられないような時代になりつつあり、生徒の中にも、戦前同様、現代版「少国民」が育ちつつあるということでした。いくつかの学校では私たちに反対の声を上げてくる生徒もいました。まさに「歴史は繰り返す」です。選挙権を18歳に引き下げ、憲法「改正」をしようとしている安倍政権は、こういう若者たちにターゲットを絞っているのだと思います。
(3)
ところで、この卒業式ビラまきは大阪でも行われました。大阪から送られてきたメールの一つを以下に紹介したいと思います。
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東京では高校卒業式へのビラまきが継続的に取り組まれ、今年の報告も続々と頂いていますが、大阪の北摂・豊能地区で今年初めて高校卒業式にビラ入れをした報告をします。それぞれの高校で300枚〜400枚配布しました。
2月28日はA高校。「秦野9条の会」が4名でビラまきされていたので嬉しくなったが、「あなたを戦争に行かせたくない」とビラにありながら、「日の丸」「君が代」は一言もなし。
3月4日はB高校とC高校、D高校で。C高校では、「孫の卒業式に来られた年配のご夫婦が「君が代」に反対しますよ、と声をかけてくださいました。ZAZA(*)のことを話すと「頑張ってください」と握手をしてくださいました。」と報告が来ています(*「ZAZA」で検索するとでてきます)。D高校では400枚のビラが完売。
3月5日はE高校で。教頭と事務長が敷地内でまくなと言いに来ました。正門の外は歩道もなく車がバンバン通るというのに。裏門では坂の下まで下がらせられました。
3月6日はF東高校とG高校で。G高校は自転車通学が多かったけれど、ビラの受け取りはよかったです。
3月7日はH高校で。校長が出てきて、道路は危ないから向かいの歩道でまけとお願いに来ました。ここは道路ですから、こちらで考えますと言うと、警察に電話していいかと言って来ました。ほっとくと次は主幹が出てきて同じ事を言うので、向かいの道路に移ると、今度は公園でまけと言う。ええ加減にしいやと道路でまきました。高校生相手に黄色い旗をもって職員が交通整理をしていました。毎日やっているとか・・・。
3月12日はI高校。自転車通行が多いので、生徒のビラの受け取りはイマイチでしたが、350枚ぐらいはまけました。
以上ですが、来年はもっとたくさんの高校でビラまきできたらと思います。
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(4)
2014年度卒業式での「君が代」不起立は、これまでわかっているところでは東京で1人(板橋特別支援学校の田中聡史さん、8回目の不起立)、大阪で1人(市立中学校のMさん)です。彼らはそれぞれ1人ですが、彼らはいずれも自己の正しさに確信をもち、自然体で闘っています。また、2人とも決して孤立してはいません。板橋特別支援学校の卒業式にはビラまきに22人が駆けつけました。また、処分決定の都教委定例会にも傍聴(定員20人)に26人が駆けつけました。大阪のMさんにも、多くの仲間たちが支援しています。2人とも、生徒・教職員・保護者からの信頼も厚いです。まさに「一人はみんなのために、みんなは一人のために」です。そうして2人は東京や大阪の民主教育の火を先頭に立って守っているのだと思います。
さらに、千葉での「君が代」不起立闘争の火も消えていないと聞いています。
したがって、今こそ私たちは、次の言葉を胸に闘いを堅持することが重要だと思います。
「小さな火花も広野を焼き尽くす!」
(補足)3月30日、田中聡史さんに対する処分の発令がありました。 内容は、減給10分の1・1ヶ月と、研修センターでの研修、というものでした。 4回目までは戒告処分、5回目から8回目は減給10分の1・1ヶ月です。 |
3月22日(日)の午後、「民主主義を取り戻せ!安倍政権NO!☆0322大行動」に参加した。この「大行動」、具体的には日比谷野音での「大集会」、日比谷公園から国会に向かう「巨大請願デモ」、国会議事堂周辺の「国会大包囲」の3つの部分からなる。
「請願デモ」には野音に入れなかった人だけが行け──ということなので、ぼくは「大集会」に参加した後、「大包囲」を行なうため、直接議事堂に向かった。
「大集会」では冒頭、主催者を代表して、「首都圏反原発連合」のミサオ・レッドウルフが挨拶をした。その中で、彼女は、次のようなことを言った。
「いろいろな団体とこの集会を行なうための相談をしていて、時間がかかってしまった。」
「結果として、実行委員会の事務局は、『首都圏反原発連合』・『原発をなくす全国連絡会』・『PARC NPO法人アジア太平洋資料センター』の3団体になった。」
このことにたぶん関連するであろう次の感想が、ある人から、ぼくも参加するML(メーリス)に寄せられた。
「今日、私も行きましたが、野音の中は1000万人アクションが乗らなかっただけあって見事に非旧総評系でした。外もそのようでした。私の所属団体からは参加要請もあったのに。次の大きな行動は5月3日になるのかな? ぜひ行こうと思っています。」
実は野音に着いた瞬間からぼくも似たようなことを感じていて、「きっと話がまとまらなかったんだろうなあ」と考えていた。残念なことだよね。
ここで触れられている「次の大きな行動は5月3日」というのは、「憲法集会」のことである。毎年5月3日に日比谷公会堂と日本教育会館(一ツ橋)で行なわれてきた2つの集会が、今年はドッキングして行なわれる。場所は、「横浜みなとみらい」にある臨港パーク。数万人、入るらしい。安倍政権の「暴走」と「壊憲」を止(と)めるために、ぼくも参加するつもりである。
「大行動」に話を戻す。上記の「ある人の感想」、実は同じMLに寄せられた「別の人」の次のコメントに対する返信であった。
「(略)土日、誰もいない国会に向かうよりも、人が大勢いる銀座に向けてデモしたほうが、よほどアピール効果はあるのではないかといつも思っていますが、そんなもんではないのでしょうか? どちらにしろ、東京新聞以外は、マスコミもほうどうしないのですから、より人の目につくほうをデモしたほうがいいのでは・・・。」
この「別の人」の予想「東京新聞以外は(略)ほうどうしない」は、少なくとも『朝日』については、「半分ハズレで半分当たり」みたいな感じであった。翌3/23(月)の社会面に、「『戦争する国つくるな』/国会周辺でデモや集会」という「本文12字×22行(写真なし)」というものの見事な「準ベタ記事」が載った。『朝日』のこのていたらくには、ウンザリするものがある。
話がまた横に逸れた。本題──というか、タイトルに書いた「大行動」の「雑感」を書く。実は野音での「大集会」、上で紹介したミサオの挨拶の後、「各イシューからのリレートーク」ということで、様々な「分野」から、多くの人が発言した。
その様々な「分野」とは、「原発」「集団的自衛権」「特定秘密保護法」「沖縄米軍基地」「TPP」「カンパ要請(は分野じゃないか)」「農業・農協改革」「社会保障」「消費税」「憲法」「雇用・労働法制」「ヘイトスピーチ」であった。
ほとんど「全面」展開──ではあるのだが・・・。実は「この集会の話を聞いて」ではなくチラシをもらった途端に感じたのだが、「全面」じゃないよな──と思ったことがある。
それは単純なこと。ここには「教育」──という言葉はぼくは使わないので「学校」と書きたいが──が、全然登場していない。「安倍の暴走」のかなりの部分を占める「学校」が登場しなくて、「民主主義を取り戻す」ことなんてできるだろうか?──というのが、ぼくが一番言いたい「雑感」であった。
5/3の横浜には、学校現場から、みんなで押しかけようよね!!
(15/03/28未明)
千葉高教組の有志5名(みつはし・高木・鳥塚・石井・條)で、1月10〜12日の3日間、沖縄を訪れた。行程は次の通りである。前々号(191号)に続き、報告する。
1/10 那覇空港→ペリー上陸碑→嘉数高台→沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故の碑 (土) →佐喜眞美術館→辺野古海岸→16:00-19:00シュワブゲート前座り込み →宿→深夜23:00-3:00ゲート前機動隊との闘い→宿 1/11 宿→ジュゴンの見える丘→慶佐次ヒルギ→13:00-16:00東村高江座り込み (日) →名桜大学映像祭「文科省 疑惑の教科書検定」→宿 1/12 宿→10:00-12:00シュワブゲート前座り込み→くすぬち平和文化館(沖縄市) (月) →琉球大学→浦添市美術館→不屈館(瀬長亀次郎、那覇市)→那覇空港 |
前夜の機動隊との衝突は、琉球新報で「13日にも作業再開 辺野古資材搬入 抗議の裏かき強行 市民ごぼう抜き、混乱」、同紙翌日には「辺野古を24時間監視 抗議の市民、初の逮捕者」と報道された。本土の出来事なら大事件で扱うはずの[連休深夜のコソ泥まがいの搬入、機動隊との衝突]など辺野古の緊迫情勢をマスコミは広く伝えて欲しい。
2日目はまず、名護市嘉陽の「ジュゴンの見える丘」をめざし海岸部の尾根を歩いた。ジュゴンは見られなかったが、サンゴ礁の絶景を堪能した。その後、慶佐次川公園で休憩、東村共同販売所で三味ソバ(三枚肉・ソーキ・テビチ入り)を食べ、高江に北上した。
東村高江は人口約150名、米軍北部訓練場(ジャングル戦闘訓練センター)に囲まれた集落である。訓練場には22か所のヘリパッド(ヘリコプター離着陸帯)がやんばるの森に点在し、区民は爆音や墜落の危険にさらされている。さらにSACO合意により、高江を囲む6か所の新ヘリパッド建設と上陸作戦訓練用水域や土地の提供が計画された。2007年7/2、高江区の建設反対決議を無視して防衛局は工事開始を強行し、この日から住民たちの工事阻止の座り込みがスタートした。高江の闘いを描いた映画『標的の村』では、2012年のオスプレイ普天間配備の際の次のような感動的な闘いも紹介している。
「何十年、こんなこと続ける? アメリカーもナイチャーも何もしてないよ。ウチナン チュー同士ばかりで、こんなことしてるんだよ」 「警察も本当はこんなことやりたくないんだろ? 誰か意地出して署長に『帰ります』 って言え!『これ以上県民と戦いたくないです』って言え!」 「市民を守るために警察になったんだよね?」 |
まさに、昨夜の辺野古で市民が機動隊に何度も問いかけた言葉だった。ちなみに、『標的の村』の映画監督三上智恵さんは東葛飾高校出身で、今年度の沖縄県教組の県教研全体会の講師もつとめていた。
高江にある県道70号沿いの北部訓練場N-1ゲート前の座り込みテントに到着し、挨拶した。琉球大学の先生であるアベさんが、「今は辺野古が大事な局面なので多くの方がそっちに応援です。しかし、こちらも毎日、監視活動を続けています」と説明してくれた。しばらくして、昨夜も座り込みにいた元三重県高教組の富田さんにお会いできた。富田さんは、毎年の日教組の全国教研「平和教育分科会」や「日の丸・君が代」問題の全国集会で再会し合う先輩だった。昨年度で定年後、なんと辺野古支援のため名護にアパートを借りて座り込みに参加し続けていると聞いて驚き、尊敬の念を強くした。富田さんの案内で、現在テントのあるN-1から、かつて闘いが繰り広げられたN-4ゲート、その間のメインゲート、さらには東側山間部のN-1裏ゲート(テント)とGHゲート(海水揚水発電所近く)など6ゲート全てを車でまわった。各ゲートに「辺野古新基地反対」や「ヘリパッド建設反対」「オスプレイ反対」などの横断幕が掲げられ、入口を反対派の車両が塞いでいた。高江の海岸では1999年米軍ヘリ墜落事故も起きていた。訓練場の金網周辺に設置された防衛局の「はいらないで 米軍演習地」の看板は、「は」と「で」の字が消されていた(「いらない 米軍演習地」!!)。
次に名護市に戻り、名桜大学で開催されていた『沖縄・奄美の映像祭inNOGO〜終わらない戦後』に参加した。沖縄戦や米軍統治・返還・基地問題などを扱う優れた番組36本の上映会だった。玉城良和県議らが参加したシンポジウムには間に合わず、17:00からの『消したい過去 消せない真実〜文科省 疑惑の教科書検定』(50分 2007年琉球放送)を視聴した。「軍の強制による集団自決」の記述を削除する動きは現在の実教日本史問題にも繋がる。沖縄県民が島ぐるみで立ち上がった様子が感動的に描かれていた。
視聴後、ゆし豆腐やてんぷら・島酒等を買い、宿(「風と海の宿」)に戻った。夕食は、管理人の佐藤君(北海道出身20代)と宿泊客の沼尾さん(東京出身20代)も一緒だった。「沖縄になぜいるの?夢は?」と話は弾み若者と楽しい一時を過ごした。年配者3人はこの日も19:00〜23:00の座り込み。翌朝、作って頂いた鹿汁とカレーをご馳走になった。
最終日(1/12)午前中は、10:00からシュワブ前座り込みに参加した。この日も山城議長は元気に話していた。参加者は50人ほどに増え、糸数慶子・山内徳信・上原政信・安次富浩さんなど有名人もいた。私達は千葉高教組として紹介され條さんが代表で挨拶した。午後は「島ぐるみ会議」のバス2台で那覇から約100名が応援予定らしい。米国シカゴ大学やミシガン大学の教授も訪問した。「オール沖縄」「島ぐるみ」の基地反対運動は、先日の機動隊との衝突で弱まるどころか、より広く強固になっていると感じた。
昼頃、シュワブ前を失礼し車を南下させ、次に沖縄市の「くすぬち平和文化館」を訪れた。館長の真栄城玄徳・栄子さんが子どもたちの平和な未来と希望を願い私財を投じて1998年に開館した。15000冊の絵本や紙芝居劇場・歴史や平和に関する資料室・映画「ひめゆり」の常設上映が行われているそうだ。しかし、残念ながら休館日だった。
続いて鳥塚さんに一年間長期研修で過ごした琉球大学構内を案内してもらった。首里から移転したキャンパスは学生はまばらだったが、かつてのチャイム代わりの「吊して叩いた不発弾」などを見学した。その後、浦添市美術館に行き昼食を食べ館内を見学した。
最後の訪問地は那覇市若狭(対馬丸記念館から徒歩10分)の「不屈館」だった。占領下の那覇市長瀬長亀次郎と民衆の闘いを紹介する博物館として2013年に開館した。投獄や弾圧にも決して屈せず民衆と闘った瀬長の人生は、私達を勇気づける。現在の基地問題のコーナーも常設され、DVDコーナーでは基地問題の番組が流れていた。キャンプハンセン(金町)のかなり昔の建設阻止の座り込み映像(阻止できたケース)を、数十年経て地区公民館で参加住民に見てもらい振り返る番組内容だった。座り込む若い母と子らの機動隊のごぼう抜きや衝突シーンがあり、見終わったおばあ・おじい達は皆泣いていた。あの時、命がけで子どもたちや地域を守ろうと闘った熱い感情が蘇ったのだろう。そして今、辺野古の海やシュワブゲート前で同様に闘い続ける県民がいる。亀次郎の言葉を思い出す。
「瀬長一人が叫んだなら50m先まで聞こえる。ここに集まった人達が声を揃えて叫べば、全那覇市民まで聞こえる。沖縄の70万人が声を揃えて叫んだならば、太平洋の荒波を越えてワシントン政府を動かすことができる」(1950年知事選挙立会演説会) |
県民だけでなく、全国の声で日本政府や米国政府を動かさなければ・・・。
17:00に不屈館から空港に向かい帰路についた。今回のツアーで、皆で話したことがあった。千葉高教組でかつて実施していた「沖縄の旅」の復活である。沖縄の情勢は日々緊迫度を増し変化している。千葉でも木更津へのオスプレイ移転の話が出ているし、多くの学校で実施してる沖縄修学旅行の充実も必要だ。子どもたちや若い教職員に「沖縄の声」を伝えなければならない。現地の緊迫状況が報道されない中、沖縄を支援し全国で声をあげるため、再び「沖縄の旅」運動に取り組めないだろうか。