ひのきみ通信 第183号

2013年11月16日



1013原発ゼロ★統一行動(10.13. 東京・日比谷)

目次

園遊会での山本議員の行為と「天皇の政治利用」とは 渡部秀清(千葉高退教)
千葉高教組県教研「平和・人権・民族」分科会の案内
 千葉の『実教日本史教科書攻撃問題』を考える
教研推進委員
 石井 泉(天羽高校分会)
安倍政権の教育政策に「NO!」と言おう
 (「月刊労働組合」2013年11月号より転載)
浅間基秀(千葉県高等学校
 教職員組合松戸支部書記長)
今さらって感じですが・・・
 『風立ちぬ』雑感
T.T.0517(千葉高教組市川
 支部「ひょうたん島研究会」)

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園遊会での山本議員の行為と「天皇の政治利用」とは

渡部秀清(千葉高退教)

 10月31日、山本太郎参議院議員(無所属)が秋の園遊会で天皇に手紙(原発事故に関する)を渡したことが大きな問題になった。
 特に、自民党の下村氏(文科大臣)や維新の橋下氏などの右翼的な政治家が「信じられない行為」とか「天皇の政治利用」、「議員辞職ものだ」などと言って騒いだ。彼らはなぜこれほど騒いだのか。
 一つには、山本議員の行動が彼らにとって非常に痛いものだったからである。もう一つは、彼らにとって天皇は、一般国民に対しては戦前同様「不可侵」の存在にしておきたいものだからである。
 そもそも「天皇の政治利用」は自民党が一番やってきたことである。最近ではオリンピック招致に皇室を利用したことにもよく現れている。そして何より、自民党をはじめ多くの国会議員が「日の丸・君が代」を「国旗・国歌」に法制化(1999年)したことに典型的に現れている。しかし本来、国民主権の国で、天皇主権の歌を「国歌」にするなどはあってならないことである。これこそ「天皇の政治利用」の最たるものであろう。法案に賛成した国会議員は、決して国民の代表とは言えない。「天皇の政治利用」「議員辞職ものだ」というなら、彼らこそ国会議員を辞職すべきなのである。
 また、何人かの評論家も山本議員を批判している。その言い分は「象徴天皇制」を分かっていないというのが多い。しかし、その言い分は結局、下村氏などの発言と同じことになっていく。なぜなら、下村氏らは「象徴天皇」と言いながら、実際には天皇を国民に対して「不可侵」のものにしておきたいからである。
 しかし、彼らは実際には「象徴天皇」を堂々と利用している。それは例えば次のことによく現れている。2004年10月の園遊会で、当時都の教育委員だった米長氏が、東京における「君が代」強制を天皇に得意げに話したとき、天皇は「強制はよくない」と言った。しかし、東京都(当時は石原都知事)はそれを無視して、「君が代」を利用し今も強制と処分を繰り返している。これこそ「天皇の政治利用」ではないか(石原氏はオリンピック招致に皇太子を利用しようともした)。
 山本議員は自ら「保守ど真ん中」と言っており、「天皇に迷惑をかけた」などと言っているようなので、天皇制をどう考えているかはよくわからない。しかし、今回の彼の行為は、やむにやまれぬものであり、まさに田中正造の現代版であり、原発事故に苦しむ人々の声を代弁したものであり、日本の子どもたちの未来を心配してのものであったことは確かである。その点では山本議員にはそのことを前面に出して頑張ってもらいたい。簡単に謝ることはなかった。
 評論家の中には、彼の行動は天皇制を強化することになる、と批判している人もいる。しかし、それはあたっていない。すでに天皇制は「日の丸・君が代」の法制化で強化されている。そして自民党は、天皇を「元首化」する方向に進んでいる。
 今回の事の本質は結局、第一には、原発事故が起きても、事故などなかったかの如く「再稼働」を認めつつある国会、被災者らを置き去りにして2020年東京オリンピックに与野党が賛成するような国会、それに対する痛烈な批判となったことである。だから国会議員の多くは与野党を問わず山本議員を批判しているのである。
 また、第二には、「象徴天皇」を山本議員が、(結果的に)人民の立場から利用することになったことに対し、支配者側が慌て危機感を抱き、「象徴天皇」を利用し天皇は「不可侵」のものであるという世論を作り上げようとしていることである。

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 ところで、その後(11月6日)、あれほど騒いでいた橋下氏や自民党は、一転してトーンダウンした。
 橋下氏は「国会議員がいる場に陛下のご臨席をたまわれば、ある意味、政治的な意味が出てくる。『政治利用』という言葉だけが独り歩きしているが、政治利用の厳密な定義は構築されていない。厳密にみれば他にも問題になる事例はあると思う」と述べ、「これだけ大騒ぎになり反省しているだろう。非常識極まりないということは認識してもらい、しっかり国会議員として活動してほしい」とトーンダウンした。
 一方、自民党も、処分については、山崎正昭参院議長が厳重注意した上で、園遊会など皇室行事への出席自粛を要請することにし、同氏への懲罰動議の提出は見送られた。
 では、なぜ彼らは急にトーンダウンしたのか。それは他でもなく、これがおおごとになると、彼らのこれまでの「天皇の政治利用」が浮き上がってくるからである。
 橋下氏については、この間の大阪における「日の丸・君が代」条例やそれに基づく処分である。「君が代」不起立で処分するということは他でもなく「天皇の政治利用」である。これは東京でも起きており、全国でも起きていることである。「天皇の政治利用」を言えば言うほど、「君が代」強制が実は「天皇の政治利用」だということが明らかになる。だから、橋下氏は「『政治利用』という言葉だけが独り歩きしているが、政治利用の厳密な定義は構築されていない」などと防御線を張っているのである。
 自民党については、「日の丸・君が代」法制化をはじめ、「天皇の政治利用」は数え上げればきりがない。さらにこれからやろうとしている彼らの「改憲草案」にある「天皇を戴く」とか「天皇は元首」とか「日・君の義務化」などもそれこそ露骨な「天皇の政治利用」だからである。だから、懲罰動議は見送り、せいぜい「皇室行事への出席自粛を要請する」ことになったのである。
 つまり、彼らは一時ものすごい剣幕で騒いだものの、それが結局は自分たちに降りかかってくることに気づいたのである。人々から「天皇の政治利用」と言われれば、彼らは何もできなくなることに気づいたのである。しかし、私たちは、今回の彼らの騒ぎを決して水に流してはならない。彼らによる「天皇の政治利用」をどんどん暴露していく必要がある。当面大事なのは、「日の丸・君が代」強制・処分は露骨な「天皇の政治利用」であることを人々に知らせることだろう。
 一方、橋下氏や自民党にとっては、天皇を「不可侵」のものにしておくことは、人々を抑えるために必要なのである。だから、橋下氏は「儀礼上非常識」と言い、自民党は山本氏に「皇室行事への出席自粛を要請する」ことになったのである。
 しかし、天皇は戦後「人間宣言」したのである。同じ人間が同じ人間に手紙を渡したからといって何が悪いのか。しかも日本社会は主権在民である。天皇は決して「不可侵」の存在ではない。「象徴天皇」を理由にして天皇を「不可侵」のものにしてはならない。

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 「慰安婦問題に国が関与した証拠がない」などと橋下氏らは言う。しかし、敗戦時、支配者らは都合の悪い書類などを必死になって処分した。
 現在の「日の丸・君が代」強制は、「主権在民」がないがしろにされていることである。しかし、歴史はいずれこの簡単な真実を暴き出し、強制した人々を裁くことになるだろう。そのため、彼らの証拠をしっかり記録しておくことは意味がある。この間東京で行われている被処分者らへの「再発防止研修」は露骨な思想転向強要である。動かぬ証拠として、以下に都立高校女性教員が受けた研修内容の一部を紹介する(これは「君が代」を利用した精神的拷問である)。

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【研修部教育経営課長・西山氏からの服務指導】8月16日 9:35〜10:15

*以下は西山氏の質問発言のみを書きました。

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千葉高教組県教研「平和・人権・民族」分科会の案内

千葉の『実教日本史教科書攻撃問題』を考える

教研推進委員 石井 泉(天羽高校分会)

高校日本史の教科書採択で異常な動きが広がりつつあります。実教出版の高校日本史教科書を採択妨害=排除する動きです。検定で認めた文科省のメンツを潰してでも、特定の教科書を排除する違法?前代未聞の動きとの批判を覚悟してでも、強行しています。この問題の元を辿ると、各教委が問題視する一部記述とは「日の丸・君が代」強制問題に関わる内容です。次の通りです(2014年度版『高校日本史A』及び『高校日本史B』)。

P185「〜1999年には、国民のあいだで意見がわかれていた周辺事態法など新ガイドライン関連法、国旗・国歌法[6]や、男女共同参画社会基本法などを、2000年には介護保険法などを成立させた。」
欄外注[6]「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由などをどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし、一部の自治体で公務員への強制の動きがある。」

 最後の「一部の自治体で公務員への強制の動きがある」の文だけが問題のようです。
 昨年度も、東京では、文科省の教科書検定を通った実教出版日本史教科書の記述について、都教委が「考え方が相容れない」と該当17校に電話し、実教出版以外を選択させました。今年も、6/27に「使用することは適切でない」とする見解を教育委員会会議で議決し、各校に圧力をかけ採択をゼロにしました。
 神奈川では、昨年7/11、横浜市教育委員会事務局が市立高校4校の実教出版希望を他社に書きかえ審議会に提出する事件がありました。今年は、7/23に教育委員全員で実教出版の希望校に見直しを求めることを決定。7/24に県教委が希望校28校の校長に「再考」を求め、全ての学校を別の教科書に希望変更させました。
大阪でも、今年7/9に府教委が、実教出版の記述は「一面的だ」とするメールを全府立高校の校長に送信し、見解文を送付しました。それでも9校が実教出版を希望し、結局、「教科書の記述を補完する具体策を各校に実行させる」を条件に採択されました。
 このような実教出版攻撃が、千葉でも起きていたのです。7/19に船橋市教育委員会会議で市立船橋高校校長が実教出版の採択の説明を再三求められました。8/1には松戸市教育委員会会議でも市立松戸高校の社会科教科主任が出席させられ、実教出版選定理由をしつこく聞かれました。現段階では、市立高校2校への攻撃のみで、県全体への波及はないようです。ただし、9/18の県教育委員会会議では来年度教科書の採択結果の報告後、金本正武教育委員長が「実教の日本史」についての説明を要求しました。指導課長が「〜問題ないと判断した」と答弁し、結局、教育委員長は「検定済みの教科書なので県としてコメントする必要はない」とも発言したようです。千葉にも攻撃が広まる可能性があるのです。また、実教出版排除を強行するのは、まさに「日の丸・君が代」強制を処分で徹底する都府県ですが、逆に、この攻撃拡大をきっかけに、全国への「日の丸・君が代」強制=処分の動きが強まる可能性だってあります。
 安倍政権下、育鵬社の歴史公民教科書の採択の動きや今回の実教出版排除の動きなど強まる教科書への攻撃、そして東京・大阪・神奈川などで処分の続く「日の丸・君が代」強制の攻撃、その現状と今後について皆さんで考えます。今回の当該校である市立松戸高校社会科の伊豆先生と、松戸市教育委員会会議を傍聴する運動を続けている神惇子さん(松戸の教育を考える市民フォーラム事務局)を招き、詳しく話をしていただきます。
 まさに、高校教科書の問題です。当事者である高校教員、特に社会科の先生の多数の参加を期待します。教科書問題に関心のある方、高校生の保護者の方、市民の方々の参加も大歓迎です。

12月7日(土)9:30〜12:00
            (於県教育会館302号室)

  【報告1】『市立松戸高校の日本史教科書選定問題』伊豆誠二さん
  【報告2】『松戸市教育委員会会議の傍聴を続けて』神惇子さん

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安倍政権の教育政策に「NO!」と言おう

(「月刊労働組合」2013年11月号より転載)

浅間基秀(千葉県高等学校教職員組合松戸支部書記長)

 安倍政権の復活により、教育政策の反動化・憲法改悪の恐れが現実化しています。私たち千葉県高等学校教職員組合市川支部・松戸支部では、13年2月27日に「安倍政権から教育と憲法を守ろう2・27集会」(このときは東葛支部も共催)に九条の会事務局長・小森陽一さんをお呼びするとともに、近隣の労働組合・市民団体等にも広く賛同団体になっていただく取り組みをしました。
 いま、集会の第2弾として、「週刊金曜日」でおなじみのフリージャーナリスト・平舘英明さんをお呼びして、「安倍政権の暴走をとめよう!12・15集会」を準備中です。日時は、13年12月15日(日)18時〜20時半。場所は市川市市民会館第2会議室です。
 第1次安倍政権により教育基本法が改悪され、連動する形で教育三法(学校教育法・地教行法・教員免許法)も改悪されました。教育基本法については「教育の憲法」ともいうべきものだったのが、戦前回帰の「お国のための教育」に教育の目的が変質させられてしまいました。その最大の特徴は修身の復活とも言うべき「道徳教育」で、教育基本法改悪による新学習指導要領の告示でも、すべての教科・教育活動において「道徳教育」を実施するということがうたわれています。
 かつて安倍首相が突然政権を投げ出し、その後の解散総選挙によって民主党政権が誕生しましたが、教育基本法・学習指導要領・教育三法を元に戻すには至りませんでした。その害悪は少しずつ教育現場を蝕み、時限爆弾を抱えているようなものです。
 夏の参議院選挙でも自公が圧勝し、解釈改憲の動きに加え、特定秘密保護法が成立してしまいそうです。言論統制が戦争への道を加速させた過去の苦い経験を私たちは忘れてはいけません。
 「教育再生実行会議」なるものが矢継ぎ早に教育のあり方を根底から変えるような提言を出し続け、続々と法案化しようとしています。まさに「改悪」教育基本法の時限装置が作動し始めたかのようです。
 そして、高校の教科書選定に横やりを入れる教育委員会や、教育委員会に圧力を加える議会が出現しています。育鵬社の中学校公民教科書の採択をしなかった竹富町教育委員会に対し、文科省が地方自治法に基づく是正要求をするよう、沖縄県教育委員会に指示しました。教科書と教育内容への介入が戦争への道の一里塚であることも歴史が証明しています。
 こうした危険な安倍政権の動きに対し、私たちの教育現場はさまざまな課題への対応に追われ、多忙を極め、反撃できていないのが現実です。
 それでも教育現場の先輩方が「子どもたちを再び戦場に送るな」と立ち上がった思いを継承すべく、まずは教育現場から「安倍教育政策NO!」の声を上げることにしました。
 2月の集会では1月中旬に集会をやろうと相談し、1ヶ月程度の準備期間でしたが、24団体に賛同をいただき、90名もの参加がありました。この賛同の和・地域をさらに広げ、「安倍教育政策NO!」そして「安倍政権NO!」の声を千葉から全国に発信していきたいと思います。

【集会連絡先】abetaiji227@yahoo.co.jp

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今さらって感じですが・・・

『風立ちぬ』雑感

T.T.0517(千葉高教組市川支部「ひょうたん島研究会」)

 「何を今さら」って言われそうですが、たった今(11/12の丑三つ時)ネットで検索したらまだ上映中みたいなので、宮崎駿の『風立ちぬ』について、雑感を書きます。
 最初に白状しておくと、ぼくには宮崎の作品を観る習慣は、ほとんどありません。『となりのトトロ』を観たのは、ぼくが所属する千葉高教組の現在休眠中の青年部主催の集会においてでした。『魔女の宅急便』は、たしかテレビで観たような気がします。
 スタジオジブリということなら、高畑勲の『ホーホケキョとなりの山田くん』は、映画館でお金を払って観ました。でもそれは、いしいひさいちが好きだから──というのが、観た理由です。
 そんなぼくが『風立ちぬ』を観たのは、夏休み中の7/26(金)の午後のことでした。この日のことは、翌日にメール発信した『瓢箪通信7/27早朝』に、次のように書きました。

 昨日7/26も、よく分からん1日でした。
 まず経団連前に行って、今日7/27に始まる全交集会の前段行動たる「脱原発」経団連前行動に参加しました。それから浜松町・東芝本社?に行き、同趣旨の行動をしました。
 それから、銀座スカラ座に行き、「風立ちぬ」を観ました。ぼくが宮崎駿を観るとは、ほとんど奇跡です。
 ただ、ユーミンの「ひこうき雲」が実際に聞こえる前に、ぼくの頭の中は、松田聖子の「数(風の間違い)立ちぬ」に独占されていました。ウ〜ン・・・。
 その後、経産省テント前の「あおぞら放送」の客になりました。
 そこから新橋に歩いて行き、数学科の飲み会で、ブリブリワインを飲みました。

 ぼくに「宮崎作品を観る」という「奇跡」が起きたのは、いつのことだったか忘れましたが、『朝日新聞』で、「ジブリが憲法改正反対の冊子をつくった」みたいな記事を読んだからです。
 その記事の「続報」が、9/24(火)の『朝日』に、「反戦の旗ジブリ/鈴木敏夫プロデューサー『常識じゃなくなっていて衝撃』」というタイトルで掲載されています。その中に、次の記述があります。

 宮さんは模型雑誌に「風立ちぬ」の原作を描いた。3年前の夏、「あれを(映画で)やろう」と言ったら、「鈴木さん、どうかしてる」と怒り出して。自分の中で結論が出ていないことを映画にできないと思ったんでしょう。
 でも数カ月後に「考えてみる」と。その年の暮れ、友情物語と恋愛物語の二つの企画案を持ってきて「どっちがいい?」と聞かれたから、「両方混ぜてはどうですか」と答えたら、10日後に混ぜた案が出てきた。

 実は、この映画については、けっこう厳しい批判もあります。例えば、10/18(金)の『朝日夕刊』に掲載された「坂本龍一が語るベネチア映画祭/『風立ちぬ』意見二分」という記事で、次のような意見が紹介されています。

 (「宮崎駿監督の『風立ちぬ』への評価は」と問われ)イタリアの飛行機設計家の登場などが好感を集めた一方、主人公がつくった戦闘機がアジアの人々を殺したり、若い兵隊が戦争で犠牲になったりしたという視点が欠けていたのが気になった。審査員の中には非常にナショナリスティック(国家主義的)な映画と受け取った人もおり、意見は二つに分かれた。

 ぼくも映画を観て、「なぜ零戦なの?」という思いはあります。でも、けっこう「肯定的」な評価です。それは、ジブリの冊子に対する「肯定的」な評価に連動しているだけかもしれませんが・・・。
 映画を観た時の率直な感想は、次のようになります。
 「ウ〜ン、これ、反戦映画なのだろうか? 零戦だしな〜。でも、『恋愛映画』だと思えば、及第点かな〜。」
 その時、上述したように、ぼくの頭の中では、荒井由美ではなく、松田聖子の声が聞こえていました。「風立ちぬ〜、今は秋〜」(今、ネットで調べて初めて知ったけど、この歌、大滝詠一の曲だったんですね!)。

(13/11/12未明)

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