![]() 「こんな教科書 子どもたちに渡せない」(2011.5.28 千葉市) |
戦前回帰しつつある動きと闘おう! 最高裁判決と大阪府条例について |
渡部秀清 (松戸国際高校分会) |
(1)
この間、「君が代」不起立に関して、以下のような最高裁判決が出された。
わずか20日くらいの間に4つの最高裁判決が出され、いずれも「上告棄却」だった。
最高裁の15人の裁判官のうち、小法廷の審理に原則として加わらない竹崎博允長官を除く14人中12人が「上告棄却」に賛成した。2人が反対意見を述べたが、判決文には反映されなかった。
4つの判決内容は、いずれも最初(5月30日)に出された判決とほぼ同じだった。以下に少し長いが、その判決から中心部分を紹介する。(アンダーラインは筆者)
「職務命令は、公立学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって、高等学校教育の目的や卒業式等の儀式的行為の意義、在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い、かつ、地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で、生徒等への配慮を含め、教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。
以上の諸事情を踏まえると、本件職務命令については、前記(*)のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの、職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば、上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。
以上の諸点に鑑みると、本件職務命令は、上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。」
(*)本件職務命令は、一般的、客観的な見地からは、式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるもの。それが結果として上記の要素との関係においてその歴史観、ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることになるという点で、その限りで上告人の思想及び良心の自由について間接的な制約となる面があるものということができる。
要するに、<職務命令>は、「上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものの」、
を踏まえた上で、
なのだから、
「思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえない」
と言っているのである。
さらにこの判決には四人の裁判官が一致したと述べながら、3人の裁判官の「補足(補強とも言える)意見」がついている。例えば、竹内行夫裁判官の意見には次のような部分がある。
「1.国旗及び国歌に対する敬意に関すること一般に、卒業式、国際スポーツ競技の開会式などの種々の行事や式典において国旗が掲揚されたり、国歌が演奏されたりするが、そのような際に、一般の人々の対応としては、通常、慣例上の儀礼的な所作としてごく自然に国旗や国歌に対する敬意の表明を示しているものと考えられる。そして、国際社会においては、他国の国旗、国歌に対する敬意の表明は国際常識、国際マナーとされ、これに反するような行動は国際礼譲の上で好ましくないこととされている。
2.上告人は教員であり、学校行事を含めて生徒を指導する義務を負う立場にあるという点が重要である。国旗、国歌に対する敬意や儀礼を生徒に指導する機会として種々あるであろうが、卒業式や入学式などの学校行事は重要な機会である。そのような学校行事において、教員が起立斉唱行為を拒否する行動をとることは、国旗、国歌に対する敬意や儀礼について指導し、生徒の模範となるべき教員としての職務に抵触するものと言わざるを得ないであろう。本件職務命令による上告人に係る制約の必要性、合理性を較量するに当たっては、このような観点も一つの事情として考慮される必要がある。」
つまり、国旗、国歌に対し不起立するような人間は国際社会からもつまはじきされると言い、まして教員については、「国旗、国歌に対する敬意や儀礼について指導し、生徒の模範となるべき教員は職務に抵触するものと言わざるを得ない」(つまり教員としての資格がない)とまで言っている。これは大阪の橋下知事が言っていることと同じである。
(2)
大阪の橋下知事は、今年5月7日に府幹部らに出したメールで、次のようなことを述べている。
「君が代を起立して歌うというのは、社会儀礼であり、組織のルールです。今の日本、国歌を歌う場では、必ず起立、脱帽を求められる。教員は、そういう場に出たことがないのか、それともそういう場でも起立しないのか。……
組織のルールである以上、それが嫌なら公立教員を辞めれば良い。公務員の身分保障に甘え過ぎています。どこの社会に、社歌を歌うのに着席したまま歌う会社があるのか。大阪府庁でも、採用任免式では、国旗の下で君が代を起立して歌うようにしました。論理的な問題ではなく、社会常識の問題ですから、最後は政治が決することです。教育の中身の問題ではないので、教育の中立性を振りかざす問題ではありません。……
組織のルールに従えないなら、教員を辞めてもらいます。
まず、3年生の担任の半数以上が起立しなかった課題校を教えて下さい。そして、起立しなかった教員の所属の学校名、氏名全てを教えて下さい。……
教育委員会は、どのようにマネジメントをしようとしているのでしょうか?
きちんとマネジメントしようとすれば、全員に職務命令を出せば良いのです。そして、違反を積み重ねれば、それに従って懲戒の段階を上げて、最後は懲戒免職が、分限免職にすれが良い。そのルールもないのではないでしょうか?ルールを作ることもマネジメントです。ビシッとルールを作って、組織全体に示す。3アウト制ぐらいにして、3回違反すれば、免職にするルールにすれば良い。」
このような考えの橋下知事が率いる「大阪維新の会」(大阪府議会の過半数を占める)は、公立学校の教職員に「君が代」起立斉唱を義務付ける条例案を5月25日大阪府議会に提出、6月3日に可決した。
橋下は、メールの中では、「論理的な問題ではなく、社会常識の問題」と言っているが、条例第一条では、以下のように述べられている。
「第一条 この条例は、国旗及び国歌に関する法律(平成11年法律第127号)、教育基本法(平成18年法律第120号)及び学習指導要領の趣旨を踏まえ、府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱について定めることにより、府民、とりわけ次代を担う子どもが伝統と文化を尊重し、それらを育んできた我が国と郷土を愛する意識の高揚に資するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと並びに府立学校及び府内の市町村立学校における含む規律の厳格化を図ることを目的とする。」
まるで、起立斉唱義務化は、「国旗国歌法」「改悪教育基本法」「学習指導要領」に基づく合法的なものと言わんばかりである。
さらに橋下は、来る9月議会には「免職条例」も出すと言っている。つまり、橋下知事の言っていることは、最高裁の判決の延長線上にあるといえる。
(3)
ところで、この一連の流れは、戦後一貫して復活が画策されてきた「日の丸・君が代」強制が段階を画したことを示している。
そして、「日の丸・君が代」起立斉唱は、
という考え方が前面に出てきたことを表している。
今後、この動きはさらに強化され、「生徒の模範」というように、すべての生徒に「国旗、国歌に対する敬意や儀礼」が強制されることになるだろう。(すでに現在そうなりつつある。生徒たちの多くは「君が代」の意味も分らぬままに起立斉唱している)
結局、学校教育を通じてすべての国民に対しても「一般常識」「ルール」として、「原発安全神話」ならぬ「君が代起立斉唱常識神話」として、疑問・批判・反対を許さず強制されることになるだろう。そして、これに反対するものは「常識知らず」として、「村八分」ならぬ「非国民」となるだろう。
(4)
では、上に述べたような一見もっともらしい彼らの論理(実はデマゴギーに満ちている)に対し、我々はどのような論理で立ち向かうべきだろうか。
まず第一に問題とすべきは、「現在の日本社会では誰が主権者か」という問題である。
「君が代」は明治初期に作られた天皇制賛美の歌であり、明らかに「天皇主権」の歌である。それは歌詞を見れば一目瞭然である。その歌を「国民主権」の日本社会において人々に強制し、起立し歌わなければ処分するなどということは、たとえ教員に対してであっても、あってはならないことである。
だから、そのことを知っていた法制化当時の政府は繰り返し「強制はしない」と述べ、天皇も「強制は良くない」と述べている。また、菅首相も「日の丸・君が代」法制化当時、「天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の立場から明確に反対した方がいい」と述べている。
最大の問題は、「君が代」の果たした歴史的役割ではなく、「君が代」が現在果たしつつある役割なのである。
これに対する裁判所の判決は、昨年11月10日に東京高裁で出された東京の小学校教員Nさんへの判決だけだと思う。
Nさんは「陳述書」で、「君が代」の歌詞の違憲性を問題にした。それに対して東京高裁は
とし、ここから先がさらに詭弁になるが、
と、司法判断を回避している。
しかし、「君が代」の「君」は天皇であると言うことは政府も法律制定時に答えている。にもかかわらず、裁判所は「特定されていない」と誤魔化しているのである。つまり、裁判所は「君が代」の<意味内容>が明らかにされることは「まずい!」と考えているのである。
また、実際に「君が代」によって、「尊重義務」や「不利益」が生じているから問題にしているにもかかわらず、「法律の存在が、直ちに・・・自由の侵害と結びつくことはない」などと訳の分らないことを言っている。しかしNさんは、「法律の存在」を問題にしているのではなく、「法律そのものの違憲性」を問題にしているのである。
要するに、「君が代」の意味内容が問題になっては、強制と処分に道理がないことが白日の下に晒されるので大変困る。だから、裁判所はいろいろな詭弁・強弁を使い、判断を回避しているのである。
それゆえ、最高裁も橋下知事も決して「君が代」を問題にしようとはせず、単なる「国歌」(あるいはシンボル=象徴)としてその本質を覆い隠そうとしている。
問題は「国民主権」の現在の日本社会で、「天皇主権」を意味する「君が代」が強制されているということである。これは「強制」より前に「主権」の問題である。そうした「君が代」を他国の国歌と同様に扱うことは、論理のすり替えである。また、何人かの教員が「強制」されなければよい、何人かの教員の「思想・良心の自由」が守られればよい、という問題でもない。最高裁の判決は、あくまでも憲法19条(思想・良心の自由)の枠で判断をしているが、問題の本質はその枠を越えているのである。
ちなみに、現在問題になっている「育鵬社」と「自由社」の教科書では、架空の神武天皇を初代天皇と記述し、明治憲法を賛美し、昭和天皇もコラムで大きく取り上げるという扱いになっている。「育鵬社」の教科書に至っては、最高裁長官が皇居で天皇に頭を下げている任命式(!)の写真が掲載されているのである。
(5)
反論の第二は、<「学習指導要領」と「慣例上の儀礼的所作」>という論拠についてである。少し回り道になるが、歴史的に見てみたい。
江戸時代、「神君」と言えば家康だった。そして天皇については、『禁中並公家諸法度』により、「天子御芸能の事。第一御学問也。」とされていた。
しかし、明治維新(1868年)により天皇制が復活し、天皇主権確立の動きが進んだ。
その後、【学校教育】を通して、「君が代」の定着、天皇の神格化が進むことになる。とくに、日清・日露戦争などを通して「君が代」は国歌のような扱いを受けるようになり、1931年(昭6)の満州事変の頃には、日本国民の多くが、まさに「慣例上の儀礼的所作」として、あるいは「社会常識」「一般的なルール」として、「国歌」斉唱を受け止めていたと言える。「小学校祝日大祭日儀式規程」が定められて以来、それまでわずか40年である。
戦後、1947年(昭22)『日本国憲法』が発布され、「国民主権」が謳われるようになった。
しかし、文部(科学)省は、「学習指導要領」をテコに、戦後一貫して「君が代」を学校現場に強いる政策をとってきた。
「君が代」をすすめる最初の通達が出た1950年から2011年までは、すでに61年も経っている。また、「国歌斉唱」の強制が段階を画して強まった1990年前後からでも、およそ20年が経過している。
この間、戦前同様【学校教育】では「学習指導要領」(法律ではない)を通して、それ以外では若者に影響を与えやすい【スポーツ】などを利用して、「君が代」斉唱の「慣例上の儀礼的所作」が強制的にあるいは巧妙に作り上げられてきたのである。「君が代」斉唱は決して「慣例上の儀礼的所作」などではなかった。全国各地の学校現場では「日の丸・君が代」なしの生徒主体の創意工夫に富んだ卒・入学式が行われていたのである。
したがって、「君が代」起立斉唱を、あたかも昔から自然にできていた「慣例上の儀礼的所作」かのごとく述べ、国民に強制するなどというのは、まさに「盗人猛々しい」論理と言わざるを得ない。
このような流れを見れば、「君が代」強制は行き着くところ、改憲論者たちが述べているように、「国民主権」を否定し、「天皇の元首化」=「天皇主権」に道を開いていくであろう。明治憲法第三条には「天皇ハ国ノ元首ニシテ・・・」と述べてある。
(6)
反論の第三は、「秩序の確保」と「名前公表」の危険性についてである。
最高裁判決では、「職務命令」は「教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図る」ためだから、「思想及び良心の自由についての 間接的な制約となる面はあるものの・・・制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるもの」としている。
しかしここで言われている「教育上の行事にふさわしい秩序」とは、決して自然に作り上げられた「秩序」というようなものではない。戦後一貫して政府・文部省が上から強制して作り上げてきた「国民主権に反する秩序」である。また、「思想良心の自由を奪う秩序」「かつての侵略戦争への反省のない秩序」でもある。
このような「秩序」は「確保」されてはならない。だから、そうした「秩序」づくりの危険を感知した教員は、絶えず批判・反対をし、不起立もしてきた。そうしなければ、日本社会は、かつての「天皇主権」の社会にもどり、「思想・良心の自由」は制限され、教員は「国策」に盲目的に従い「再び教え子を戦場に送る」ようになっていくからである。
そうすることは教員にとって、憲法で保障された当然の権利であり、主権者たる「国民」に対する義務でもある。しかし、最高裁判決はそうした教員の正当な行為を認めず、「職務命令」と処分は「秩序の確保」のために当然とした。
大阪の橋下知事に至ってはさらにその先を行っている。彼は数を頼りに何でもできると言わんばかりに、<不起立は「府民への挑戦」>、<「公務員に(不起立の)自由なんてない>、<「3アウト制くらいにして、3回違反すれば免職とするルールにすれば良い>などと言って、その教員の<名前も公表する>とまで言っている。
しかし、もし名前が公表されるようなことになれば、どういうことが起きて来るか。その教員は、教育現場から追放されるだけにとどまらず、一気に「非国民」扱いにされることになる。「白色テロ」ということさえも考えられる。これはまさに戦前にあったことである。要するに、ファシズム社会の再来である。「茶色の朝」ならぬ「暗黒の昼」の到来、と言っても過言ではない。
(7)
以上、この間の最高裁判決と大阪府条例について、その中身を紹介し、彼らのデマゴギーに満ちた論理に対する反論を試みた。
今回最高裁自ら上に述べたような判決を出したことは、『日本国憲法』で定められた「国民主権」「基本的人権の尊重」の明白な空文化である。「戦争の放棄」の空文化とあわせるならば、戦後66年を経ての『日本国憲法』三原則の空文化と言うこともできる。
また、大阪府条例はその先を行き、日本社会を露骨に戦前に回帰させるものである。
このような動きを許しておけば、次には必ずや憲法改悪とファシズムの社会がやってくるだろう。
では最後に、これと対決するためには、我々はどうすればよいだろうか。
まず何よりも、多くの人々に(多くの生徒たちに)「君が代」の歌詞の意味を丁寧に知らせることである。その上で、
ということを明らかにし、
というような現代日本の本当の「社会常識」を広め、かつそれでも強制してくるものに対しては、主権者たる我々が力を合わせ、大衆的に立ち向かうことではないだろうか。
道理は我々にある。強制するものは再び敗れ、我々がいずれ勝利するだろう。そして我々は、「君が代」に支配される暗い社会に、朗らかに「さよなら」をすることになるであろう。
都合により、「お知らせ」欄は休ませていただきます。ご了承ください。 |