![]() 液状化で50cmも地盤沈下 (2011.3 東京湾岸の千葉県立高校) |
二つの相反する東京高裁判決と原発事故 | 渡部秀清(松戸国際高校分会) |
『北海道の教育現場』 (県教研「平和・人権・民族」分科会報告) |
石井 泉(市原高校分会) |
年度末にムカツク言葉 | T.T.0486(千葉高教組東葛 支部「ひょうたん島研究会」) |
この間、東京高裁で「君が代」不起立に関する二つの相反する判決が出ました。
(1)
3月10日、[1]アイム「君が代」裁判控訴審(原告2名)と、[2]「君が代」裁判第一次控訴審(原告169名)に対し、東京高裁(いずれも大橋裁判長)は、双方に「懲戒処分取り消し」の判決を出しました。[1][2]の判決はほとんど同じ内容で、10分間隔で立て続けに出されました。
裁判所前には傍聴に入れなかった多くの支援者が集まっていました。そこに裁判所から出てきた弁護士は、みんなが見守る中、おもむろに「一部勝訴」、「逆転勝訴」の垂れ幕を広げました。垂れ幕を持っている若い女性弁護士は涙ぐんでいました。
勝訴を予想していなかった多くの人々は、最初、何が起きたのか理解することができませんでした。澤藤弁護士が「勝訴です!」と言うと、大きな歓声と拍手が起こり、あちこちで「よかった」「よかった」の声、涙を流す人。みんなの中に次第に勝利の実感が涌いてきました。
判決の主文は、(1)控訴人らに対する懲戒処分を取り消す、(2)控訴人らの損害賠償請求は棄却する、というものでした。
理由は以下の文の< >のところです。「控訴人らには校長の職務命令に違反したという懲戒事由があるが、控訴人らに懲戒処分を科すことは、懲戒権者の<裁量権の範囲を逸脱>するものであって、違法であるから、懲戒処分を取り消すべきである。」
しかし、「一部勝訴」というのは、「職務命令及び懲戒処分は、憲法19条の思想・良心の自由の保障に違反しない。」としたことです。
つまり、処分は違憲ではないが<裁量権逸脱>で違法だという、なんとも苦しい判決なのです。報告会では澤藤弁護士が、「この判決は裁量権だけで勝訴となったことにがっかりしたが、しかしその理由が素晴らしい」と述べました。また、ある弁護士は「悩みに悩んだ判決」と表現しました。それは、原告団・弁護団による<声明>に反映されましたが、以下にその一部を紹介します。
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判決は、控訴人らの不起立行為等は、自己の個人的利益や快楽の実現を目的としたものでもなく、生徒に対し正しい教育を行いたいなどという歴史観ないし世界観又は信条及びこれに由来する社会生活上の信念等に基づく真摯な動機によるものであり、少なくとも控訴人らにとっては、やむにやまれぬ行動であったということができる、と判示した。
さらに、「歴史的な理由から、現在でも『日の丸』・『君が代』について、控訴人らと同様の歴史観ないし世界観又は信条を有する者は、国民の中に少なからず存在しているとみられ、控訴人らの歴史観等が、独善的なものであるとはいえない。また、それらとのかかわりにおいて、国歌斉唱に際して起立する行動に抵抗を覚える者もいると考えられ、控訴人らも、1個人としてならば、起立を義務付けられることはないというべきであるから、控訴人らが起立する義務はないと考えたことにも、無理からぬところがある」と判示した。
そして、控訴人らの行為によって卒業式等が混乱したという事実はなかったこと等も踏まえ、結論として、不起立行為などを理由として懲戒処分を科すことは、社会通念上著しく妥当を欠き、重きに失するとして、懲戒権の範囲を逸脱・濫用するものであるとして違法であるとし、控訴人らに対してなされた各懲戒処分を取り消した。
一方で、10・23通達及び職務命令は、憲法19条及び20条に違反せず、改定前教育基本法10条の「不当な支配」にもあたらないと判断した。また、損害賠償請求については認めなかった。
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被処分者の会の近藤徹さんは、「処分を取り消した判決は全国でも初めてだ。そうした意味で画期的・歴史的判決だ」と述べました。
(2)
3月25日、東京高裁(加藤裁判長)で<河原井さん・根津さんの06年停職処分>の判決があり、全面棄却でした。
3月10日に、上記裁判で勝訴して2週間後、しかも同じ争点であり、加藤裁判長も「歴史的な判決を出す」などと述べていましたので、全面棄却の判決が出るとは多くの人が予想していませんでした。
判決理由は、これまでにもましてひどい内容でした。この判決は段階を画した反動判決と思われますので、以下少し長くなりますが、判決文から引用します。
<争点1>の思想・良心の自由について
「思うに、内心に反する外部的行為の強制が思想及び良心の自由の侵害となることがあり得るとしても、思想及び良心に反することを理由に外部的行為を強制されない自由が一般的に認められるとするならば、適法に課された義務までが一切否定されることになりかねず、社会の秩序を維持することは困難となり、ひいては社会が成り立たなくなる蓋然性がある。したがって、思想及び良心に反することを理由に外部的行為を強制されない自由があるとしても、それは外部的行為の強制がその者の思想及び良心の核心的部分を侵害する結果となる場合に限られるものと解される。」
<争点2>不当な支配・教育の自由に関して
「そこで判断するに、現行教育法制上、教育公務員に一般公務員と異なり、特別な法的地位が付与されているとの根拠はない。・・・また、学問の自由を保障した憲法23条及び教育を受ける権利を保障した同法26条は、児童、生徒が適切な教育を受ける権利を保障しているもので児童、生徒に教育する立場にある教師の普通教育の場における個人的人権としての教育の自由を保障したものとは解されない。」
「そこで判断するに、普通教育において指導すべき国旗・国歌に関する基礎的な知識を指導することが必要であること、また、卒業式、入学式などの学校行事を学習指導要領に即して適正に実施する必要があることは前示のとおりであるところ、国歌斉唱の指導を行うべき教員の中に国旗に向かって起立し、国歌を斉唱する教員とそれらを拒否する教員とがいた場合、その指導を受ける児童、生徒としては、国歌斉唱の際に国旗に向かって起立してもいいし、しなくてもよい、国歌を斉唱してもいいし、しなくてもよいと受け取ってしまうこととなり、児童、生徒が国旗・国歌について正しい認識を持ち、国旗・国歌を尊重する態度を学ぶことができなくなる結果を招く。このことは児童、生徒が基礎的知識に属する事項を学ぶ上ではマイナスというほかないから、その意味では児童、生徒の学習権又は教育を受ける権利の侵害に当たると評価せざるを得ないものである。さらに、同時に式に参列する来賓や保護者に不信感を抱かせるとともに、これらの者の中には卒業式や周年行事などの式典において、日の丸を掲揚し、国歌を斉唱することが当然と考える人々も多数おり、それらの人々に対しては、嫌悪感や不快感を生じさせることともなる。このことからすると、本件職務命令である国旗に向かって起立すること、国歌を斉唱することに違反した場合は、児童、生徒の学習権又は教育を受ける権利を侵害する職務命令違反であると同時に信用失墜行為と評価せざるを得ないものである。」
<争点3>裁量権の逸脱・濫用について
「控訴人らが行った不起立行為は、公教育を担う教育公務員が、教育課程の一つである特別活動としての卒業式や周年行事の場において、学習指導要領に沿って教育課程を適正に実施するため、また児童、生徒に国旗、国歌に関する基礎的知識を指導すべく児童、生徒の学習権を保障するために発せられた校長の職務命令に違反し、児童、生徒、保護者、来賓その他の学校関係者に違和感ないし嫌悪感を生じさせる職務命令違反行為であると同時に信用失墜行為といわざるを得ないものであるから、重大な非違行為であると評価されてもやむを得ないと解される。」
ここでは分析は控えますが、この加藤裁判長の判決は、裁判所が「憲法の番人」の役割を放棄し、単に「政府・文科省・都教委の番人」に成り下がったことを示していると思います。しかし、人々の「民主主義」「民主教育」の闘いは続いています。今年度、根津さんは卒業式に参加できず不起立はできませんでしたが、それでも不起立者は出ており、しかも新しい不起立者も複数出ているのです。
(3)
約20年前、当時の職場(市川工業)の社会科の同僚と、福島第一原発を見学に行き、たしか、今回最初に爆発を起した第1号炉の炉心近くまで入りました。
その際、放射能防御服のようなものを着せられ、炉心に入る前に小さな部屋に入りましたが、案内の人が、「この部屋には外から空気は入るが、決して外には漏れない構造になっている」、と言いました。炉心近くまで行き、帰りは空気シャワーのようなものを浴びて出てきました。しかし、その時いろいろな疑問が涌きました。「ではその部屋に入った空気はどこへ出て行くのか」「われわれや中で働いている人たちが着た服はどうするのか」
また、ある民宿に泊まったのですが、民宿の人に原発の問題について質問すると、次のような答えが返ってきました。「原発は安全ですよ。また、原発はいいですよ。原発のおかげで、町は豊かになり税金もとられなくなりました。みんな喜んでいますよ」
地域では少数の原発反対派の人にも会いに行きました。すると、次のような答えが返ってきました。「原発で働いていた地元の人たち何人かが奇妙な死に方をしたので、その後原発では地元の人を雇わなくなった」。その方は、毎日放射能を測定していました。
その原発がこの度の地震で大事故を起し、深刻な放射能汚染が東日本一体を襲っています。あの民宿の人ももう地元に帰れないかもしれません。これはまさに過去・現在の日本社会の縮図を見るようです。すべて上から言われたことを鵜呑みにしてはいけないということです。
国民主権となった日本社会で、天皇制賛美の「君が代」を強制し、従わなければ処分することも正しいなどということを、いくら裁判所が言おうとも決して信じてはなりません。
昨年12月4日に行われた県教研「平和・人権・民族」分科会では、北教組の教文部長西村浩充氏を招き、北海道の教育現場の状況について話を聞いた。昨年5月に道教委が出した「密告制度」と悪名高い、『通報制度(「学校教育における法令等違反に係わる情報提供制度」)』の話を中心に、丁寧に説明して頂いた。また、西村氏には多忙の中、前日夜遅くに千葉に到着し、当日も午前中の講演後すぐに羽田空港へトンボ帰りと、この教研のために強行日程をこなして下さり、本当に感謝に堪えない。以下、講演内容を報告する。
『通報制度』の主な内容は、次の3点である。
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この制度は、一般人には一見、「法令違反行為を知ったならやめさせるために通報するのは当然」と誤解されやすい。この厄介な内容を、西村氏ら北教組は丁寧に分析し、明確に問題点を指摘し、広く道民に訴え続けている。
第1に、法令違反とする根拠の法令そのものが憲法違反である場合があること、また百歩譲って法令違反とされる行為も実は正当な権利行使である場合が多いのである。教職員に選挙の投票行動以外ほとんどの政治行為を禁止し、勤務時間内の組合活動を全て法令違反とすることは、厳密な意味で間違い、憲法違反なのである。憲法は、政治的見解を表明したり政党活動を含め行動することを人権として保障している。また、憲法28条で団結権が保障され、教職員の組合活動について、緊急やむを得ない場合で教育活動に実質的な支障がない場合には、多少の時間は勤務時間中にかかる組合活動を認めている。実際の具体例では多くのケースで、裁判所でも意見が分かれる問題であり、とにかく裁判官が判断することを道教委が勝手にかつ恣意的にやろうとしているのである。
第2に、「学習指導要領からの逸脱」の通報も「当然に正しい」ことではない。旭川学テ判決は、「大綱的基準」「教師による創造的・弾力的な教育の余地があるか」「教師に一方的な一定の理念や観念を生徒に教え込むことを強制しないか」など学習指導要領の限界性を指摘した。子供たちに直接対する教師に生き生きとした教育活動を保障し、子供の学習権・発達成長する権利を保障している。画一的な教育こそが、憲法違反なのである。
第3に、この『通報制度』は、憲法で保障された権利行使や正当な活動を「違法」とする雰囲気を醸成し、民主主義・基本的人権の保障という点で極めて危険な制度である。この制度では、「誰が何を『通報』したのか」が当事者又は当事校に全くわからないまま、勝手な誤解・偏見・恣意的な「通報」が一人歩きし、大きな事件となる。学校内での解決を不可能にし、信頼関係を崩壊させ、防御は困難である。従って、正当な活動さえも自粛・萎縮する「自己規制」が強く働く。また、同僚教職員による『通報』も「責務」であり、常に監視されているという恐怖感にさらされる相互の密告・監視体制を作り出すものに他ならない。学校内外の信頼関係を破壊し、疑心暗鬼と不信感の中で教育活動をせよというものである。
道教委がこのような治安維持法まがいの『通報制度』を出した真の狙いは、@自民勢力が勝てない北海道の国政選挙・地方選挙で労働組合の選挙活動を足止めしたい(昨年は参院選挙・今年は統一地方選挙)、A日教組の平和教育や運動で先頭に立ちストライキも実施できる団結力を保持する北教組を弱体化させたい、A「日の丸・君が代」問題等で闘いの続く教育現場の管理統制強化をはかりたい、というあせりからである。実際、一昨年の総選挙の小林議員の選挙違反報道以来、「北教組バッシング」が露骨に展開され、様々な組合攻撃の一つとして『通報制度』も出てきた。これまでの広島・東京などに続き、日教組運動の中心を担ってきた都道府県教組への攻撃、日教組つぶしの攻撃の一環である。
北教組はこの問題について、すぐに道民に直接訴えかける「全道キャラバン」を行い、100万人を目標とする署名活動に取り組んでいる。制度の本質を道民に理解してもらうため、表に立って大きな声で活発に反撃行動を続けているのである。このような教職員組合への攻撃は北海道だけの問題ではなく、日教組をあげて北教組を支援すべきである。
講演では、『通報制度』の他、北教組の平和教育・運動の報告、アイヌ民族の学習(人権教育)の報告もして頂いた。いずれも、千葉高教組が学びたい点・参考にしたい点が沢山あった。西村氏の講演からは、「現在の北海道の教育現場の状況をもっと全国の人に知ってもらいたい」との意気込みを強く感じた。千葉高教組も、今こそ北教組を全面的に支援し、今後もこのような交流・連帯を是非深めるべきだとの思いを強くした教研だった。
3月21日(月)の『朝日』に、福島原発に関連するインタビュー記事「官邸は大局見据えビジョンを/飯島勲・元首相首席秘書官」が載った。この記事の最後の方で紹介されている飯島の次の言葉──。
首相の演説で災害が克服されるのではない。民主党政権下でないがしろにされていても使命感に燃えて頑張っている公務員や地域の人々の努力で、災害は克服されていくのである。 |
公務員を「ないがしろ」にしたのは民主党政権ではない──と言いたいところだが、たしかに、民主党政権も公務員を「ないがしろ」にしてはいる。だがしかし、それよりはるかに多く「ないがしろ」にしたのは、小泉政権だ。その小泉政権で首相首席秘書官を務めた飯島に、こんなセリフを言う資格はない。
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同じ紙面のコラム「発言録」で紹介されている福島原発に関連する次の言葉──。
【平野達男・内閣府副大臣(被災者生活支援特別対策本部事務局長)】 「公務員は上の判断を仰がないと決断できない、ということはやめていただきたい。時間との勝負だ。自分で判断できると思ったところは判断する覚悟を持ってもらいたい。」(NHK番組で) |
ぼくも、「公務員は上の判断を仰がないと決断できない、ということは」やめたいんだけどね〜。でも、自分で判断して行動すると、「上」にいじめられるんだよね〜。「業績評価なんて、百害あって一利なし」て諭しても無視されるし、「日の丸・君が代」問題なんて、「自分で判断なんかしないで、黙って『上』の言うことを聞け!」ってことだもんねえ。
自分で判断して行動する自由を現場労働者から日常的に奪っておきながら、「自分で(略)判断する覚悟を持ってもらいたい」と急に言われてもねえ。
まあ、学校で毎日生徒と勉強している教員としては、やっぱり「自分で考えることが大事だ」と、「覚悟を持って」言い続けるしかないよねえ。
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最後に、これはムカツク言葉ではなく、多くの部分で同意できる言葉を紹介する。3月24日(木)の『朝日夕刊』の赤川次郎のコラム「三毛猫ホームズと芸術三昧!」より──。
(略)1000年に1度とも言われる大規模地震と津波の被害については(後の対応は別にして)、誰の責任も問うわけにいかないだろう。 しかし、福島第一原子力発電所の惨事は「人災」である。この狭い国土の地震大国に次々に原子力発電所を建て続けたのは、電力会社と結んだ自民党政権であり、なぜ自民党の罪を問う声が起こらないのかふしぎだ。 また大手広告主の電力会社の顔色をうかがって、原発の危険性に目をつぶってきた大手マスコミも同罪である。 14日からは「計画停電」が始まったが、節電は当然として、これまでも原発が事故を起こす度、従来の発電所だけで、真夏のピーク時でも乗り切ってきた。今回は火力発電所の被害もあって、ある程度はやむを得ないにせよ、これほど大がかりな停電が必要なのか。むしろ、今回の事故で「原発不要論」が巻き起こるのを牽制しようとしているのではないかとさえ思えてくる。(略) |
被災者の生活再建のためにできることをそれぞれの人間が追求するのは当然だが、そのことと責任の所在を曖昧にすることとは、別のことである。アジア・太平洋戦争と同じく、「1億総懺悔」などしてはならない。
(11/03/26早朝)
都合により、「お知らせ」欄は休ませていただきます。ご了承ください。 |