![]() ペシャワール会現地報告 中村哲講演会(10.24 千葉) |
「君が代」裁判と「道徳」の必修化 | 渡部秀清(松戸国際高校) |
世紀始めにムカツク言葉・2題 | (T_T)0479(千葉高教組東葛支部 「ひょうたん島研究会」) |
現在、不起立などでの「君が代」裁判は、6件が最高裁にかかっており、今年度中にはさらに5件が加わる予定である。その5件のうちの一つ、Nさん裁判の判決が11月10日東京高裁で出された。
それを前にNさんは高裁に次のような内容の「陳述書」を出していた。
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私はこの裁判において「君が代」の違憲性を問うています。しかし、地裁判決ではその点について全く触れられていません。・・「君が代」の歌詞は統治体制としての天皇制を賛美する内容です。そして「君が代」は先の侵略戦争において戦意高揚の中心的役割を担った歌です。ですから、こうした天皇制軍国主義を反省した現憲法の主権在民・平和主義・基本的人権の尊重という大原則に反しています。・・ ところがこれまでこの単純明瞭なことには触れないように、話をあちこちに振って誤魔化したりするので無理も生じ押し付けになって誰も納得できないでいるのです。
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高裁判決2日前の11月8日、国会で自民党の平沢勝栄議員が菅首相に、「日の丸・君が代」法制化時に菅氏が反対したことを問い詰め、次のようなことを言った。(国旗・国歌法案)「採決の次の日(1999年7月23日)の朝日新聞になんと出ているか。菅代表の発言で、『天皇主権時代の国歌が、何らかのけじめがないまま、象徴天皇時代の国歌になるのは、国民主権の立場から明確に反対した方がいい』と書いてある」。これに対し菅首相は、恥知らずにも「11年前だから記憶にない」と言い逃れをした。しかし、彼が当時言ったことは正しいのである。
今回の判決は「控訴棄却」だった。それでも判決文の中に、<国旗及び国歌に関する法律の違憲性について>という部分があった。そこには、次のようなことが書いてあった。
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「国旗及び国歌に関する法律は、第1条において『国旗は、日章旗とする。日章旗の制式は、別記第一のとおりとする。』第2条において『国歌は、君が代とする。君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする』と規定している。
すなわち、同法は、[1]国旗については、日章旗にするとして、その寸法の割合及び日章の位置、彩色について、[2]国歌については、君が代の歌詞及び楽曲を規定するのみであって、それ以上に、日章旗とすることの意味内容や君が代の歌詞の意味内容についての特定がされているわけではない。
さらには、国旗及び国歌に関する法律が、国民に対して、国旗及び国歌についての法律的尊重義務を課したり、これに違反した場合に不利益を課するなどといったことは一切規定していない。
したがって、国旗及び国歌に関する法律の存在が、直ちに、思想及び良心の自由の侵害、信教の自由の侵害、表現の自由の侵害と結びつくことはない。
これらのことから明らかなように、国旗及び国歌に関する法律は、ただ単に国旗を「日章旗」とし、国歌を「君が代」と定めただけにすぎず、その法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、裁判規範性としての意味を持たないものであるから、同法が憲法に違反するか否かという司法判断にはなじまないものといわざるを得ない。」(アンダーラインは筆者)
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つまり、[1]「国旗・国歌法」は、「日の丸・君が代」の意味内容についての特定がなされているわけではない、[2]国民に対して法律的尊重義務を課したり、違反したら不利益を課すなどといったことも一切規定していない、[3]したがって、法律の存在が基本的人権の侵害と結びつくことはない、と述べ、[4]そこから「法律自体極めて抽象的であって具体性がなく、裁判規範性としての意味を持たないものであるから、同法が憲法に違反するか否かという司法判断にはなじまないものといわざるを得ない。」と司法判断を避けているのである。
「君が代」の意味内容は国会審議でも明らかにされている。にもかかわらず「特定されていない」などと述べることは、如何に<意味内容>が明らかにされるのを恐れているかを示している。
また、「尊重義務」や「不利益」については、原告は、実際にそれが起きているから問題にしているにもかかわらず、裁判所は、法律に規定がないといって、必死に目を閉ざし、「法律の存在」が基本的人権の侵害とむすびつくことはない、と強弁している。
しかし、原告が争っているのは、現実に「君が代」を「義務」的に強制され、人権を「侵害」され、「不利益」を受けている、ことに対してなのである。
またNさんは、「法律の存在」ではなく「法律」そのものが違憲だと言っているのである。
したがってこれは、「はぐらかし」、「ごまかし」であり、裁判所の「責任放棄」以外の何物でもない。
要するに、「君が代」の「意味内容」が知られては困るのである。だから、都教委は「生徒に教えるな」と言い、裁判所は「特定がされているわけではない」と言う。これが「国民主権国家」日本の現実の姿である。
Nさんは上告することになった。
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11月10日、千葉県教委の有識者会議(「県道徳教育推進委員会」)がまとめた<最終提言案>で、2013年度をめどに県立高校での「道徳」必修化が打ち出された。これは森田県知事の肝いりで進められていたという。しかし、彼は昨年3月の県知事選の際、自民党であるにもかかわらず、「完全無所属」と大ウソを言って当選した人物である。しかもこの有識者会議には彼の気に入った人物が多く参加している。まったく「悪い冗談」、「茶番」である。あるいはこれも又「ウソ」なのかもしれない。千葉県の教育委員会もなめられ、落ちたものである。
ところで、「道徳」の必修化についてである。
戦前の教育の最大の反省としては、人々を「道徳的に教育し人々を社会的無知にさせてしまった」というのがある。それを背景に、政府は国民に、社会的事象を科学的にではなく道徳的に判断(「ああ爆弾三勇士」、「鬼畜米英」など)させ、国民を無謀な戦争へと駆り立てて行った。だから、戦争が終わった時、国民の多くは「騙された」と怒り、「無知だった」と思い知らされた。つまり、道徳が前面に出てくれば(それは「愚民化政策」である)、客観的・批判的な判断が鈍り、主観的・情緒的な判断に陥りやすくなる。その結果、大きな悲劇をもたらすことにつながる。また、科学は後退し社会の前進は阻害されることになる。
しかし、この「道徳」は今回新学習指導要領の重要な柱となった。そのことは、「愛国心」の復活と一緒になっている。(同時に、古い家族制度の美化や男女混合名簿の否定なども見られるようになってきた)。学校現場では、卒・入学式で壇上の「日の丸」にうやうやしく礼をする(これは偶像崇拝である)管理職が増えてきた。まさに戦前並みである。
したがって、「道徳」を前面に出してきた千葉県・日本国は、今後、社会的にも国際的にもますます遅れていくであろう。こうした歴史の後退にたいしては、私たちは異議を唱え、反対しなければならない。
毎日働いている千葉県立柏南高校で、『ぶらんこ』という名の職場新聞──っていうか、ほとんど個人紙だが──を、ほとんど毎日出している。その職場新聞の冒頭コラム「世紀末に息抜く言葉」が『ぶらんこ11/15号』で1000回を迎えたことを記念し、「世紀始めにムカツク言葉」を、2つほど紹介する。
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11月13日(土)の『朝日夕刊』1面に載った小さな記事から──。
【オバマ大統領がアジア重視強調】 (略)米国がAPECで貿易障壁の削減に取り組んだり、TPPに参加交渉したりする理由については「成長するこの地域にとどまる強いメッセージを送るためだ。我々は運命を共有している」と説明。対アジア外交について「20世紀に米国は、アジアの安全保障と繁栄に貢献してきた。新世紀にも、再び(アジアを)率いる用意がある」と強調した。(尾形聡彦) |
今は昔、「大東亜共栄圏」の盟主としてアジアを「率い」ようとした国があったっけ・・・。
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翌14日(日)の『朝日』の社説「対米中ロ外交/これを反転の足場として」から──。
(略)普天間の県内移設にノーを突きつける沖縄の民意は固く、日米合意の実現は厳しさを増している。一基地の問題が日米関係の大局を見失わせた鳩山政権時代の轍(てつ)を踏んではならない。 この取り扱いは両国政府に、これまで以上の細心の注意を要求している。 |
「両国政府に」って書いてあるけど、『朝日』の「社説」がアメリカに「細心の注意を要求」したことなんて、あったっけ? アメリカの意向に沿って「国外移転は無理だ」みたいなことを言い続けていなかった?
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──ということで、今回の「ムカツク言葉」、2つともアメリカがらみになってしまいました。
(10/11/15・七五三の日の未明に)
都合により、「お知らせ」欄は休ませていただきます。ご了承ください。 |