ひのきみ通信 第161号

2010年10月16日



8.28都教委包囲行動(新宿)

目次

歴史は繰り返す 荒川 渡
映画『ANPO』についての雑感 (T_T)0477(千葉高教組東葛支部
 「ひょうたん島研究会」)
伝えたいこと

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歴史は繰り返す

荒川 渡

(1)

 「ひのきみ通信」第148号(2009年2月28日発行)に、私は『世界恐慌と保護主義の台頭』と題し次のようなことを書いた。
 「昨年9月のリーマンブラザーズ破綻に端を発する世界金融危機は、それまで信用で覆い隠されていた貧富の差の拡大による市場の狭隘化(相対的過剰生産)を一気に表面化させ、世界同時不況≒恐慌に突入した。その後、世界中の政府が必死になって支援策を打ち出し経済立て直しを図ってきたが、事態はさらに深刻化し、まさに世界恐慌になってきている。」
 それからすでに1年7ヶ月余り。この間各国政府による「公的資金の注入」や「消費拡大策」(日本では「家電・住宅エコポイント」「エコカー補充金」などが実施された)により、人為的に需要を作り出し、景気回復を図ってきた。しかしそのために、各国とも財政赤字が膨張し、そうした政策は限界に来ている。しかも、貧富の差の拡大は解決できず、相対的過剰生産⇒倒産・失業⇒市場のさらなる狭隘化⇒さらなる相対的過剰生産⇒…、という悪循環から抜け出せないでいる。その結果、現在、世界的規模での失業者の増大が大きな問題になってきている。

(2)

 これは、戦前の世界恐慌(1929年)後数年間に起きた世界的規模での失業者の増大と同じである。アメリカでは世界恐慌以前(1928年)は失業者190万人だったが、世界恐慌3年後(1932年)には1190万人となった。イギリスは122万人から275万人へ、フランスは2万人から31万人、ドイツは227万人から540万人と増加した。日本については井上清の『日本の歴史』(岩波新書)に次のように述べられている。「(1929年)失業者は数十万人にたっし、帰農者もふくめれば300万人以上が失業したと推定される。1930年秋の米作は大豊作であったが、そのため米価は半額以下になり農家には空前の豊作飢餓となった。翌31年は北海道・東北地方の冷害・大凶作で、農民の惨状は言語に絶した。親子心中、娘の身売り、学童の欠食はいたるところで見られた。」
 この失業者増加を背景に、現在世界中で「景気対策(恐慌対策)」が模索されている。

(3)

 日本では10月5日、日銀が「ゼロ金利」を復活させるなどの追加の「金融緩和」策を決めた。日銀は「過去に例のない緩和策だ」などと言っているが、経済理論からすれば、資本の「利潤」が出なくなったので、<利子>が払えなくなったということにすぎない。不景気が克服されなければ<利子>が下がるのは当然のことである。もう少し説明を加えれば次のようなことである。新しい価値は生産活動から生まれ、それは「賃金」と「利潤」に配分されていく。そして「利潤」は、[1]<企業利潤>、[2]<株式の配当>、[3]<地代>、[4]<銀行利子>などに分かれていく。だから、「利潤」が生まれなくなれば、[1][2][3][4]もそれに比例して少なくなるか、お互いの反比例の関係により対立が強まる。だからよく、株主が「<企業利潤>を株主に還元(<配当>)しろ」などと噛み付いたりする。また、「<銀行利子>が下がれば株価が上がるから、<銀行利子>を下げろ」と言われたりする(今回も平均株価はすぐに上がった)。
 また「賃金」と「利潤」も反比例するから、「利潤」を上げるためには「賃金」を抑えるということになる。だから企業は、正社員ではなく派遣・パート・アルバイトなどを多く使うようになる。
 しかし、いずれにしても「ゼロ金利」ということは、「利潤」追求が至上命題の資本主義的経済が行き詰まったことを示している。

(4)

 戦前の世界恐慌後、資本主義経済が行き詰まったので、世界は市場獲得競争を激化させ、ブロック経済化(ドルブロック、ポンドブロック、フランブロック、円ブロックなど)し、通貨の切り下げ(輸出に有利)と植民地獲得に露骨に乗り出すことになった。その結果が最終的には第二次世界大戦に行き着いた。
 戦後その教訓から、連合国を中心に、金(最終的な国際通貨)=ドルを基軸とした通貨安定策(固定相場制)を決め、国際的な自由貿易を進める国際貿易機関を作ろうとした。後者は流産したが、GATT(関税・貿易に関する一般協定)ができ、曲がりなりにも自由貿易体制を広げ、1995年にはWTO(世界貿易機関)へと脱皮した。中国も2001年に加盟し、ロシアもまもなく加盟すると言っている。

(5)

 しかし、すでに1971年の金=ドル交換停止により、固定相場制は崩壊し、変動相場制となった。そして1985年には日本の輸出攻勢に対し、米欧は協調して「プラザ合意」を取り付け、円高・ドル安に導いた。これは一種のドル切り下げであった。現在この傾向(他国通貨への切り上げ要求、自国通貨の切り下げ)は、世界的なものになりつつある。アメリカのガイトナー財務長官は10月6日、世界的な「通貨切り下げ競争」に懸念を示した。10月9日にワシントンで開かれたG7(主要7カ国財務相・中央銀行総裁会議)では、中国の「人民元切り上げ」(相対的に他国の通過切り下げになる)を促すことで各国(米・英・日・仏・独・伊・加)は一致したという。現在、円高(1ドル82円前後)に直面している日本は、輸出産業に大きな打撃となるとして、円高を阻止しようとしている。
 一方、1995年にWTOができ、世界的な自由貿易体制は確立したように見えたが、会議を開いても加盟国の関税における利害対立を解決できず、WTOは現在行き詰まっている。そうした中、二国間・地域間で結ばれるFTA(自由貿易協定)が進行しており、各国は競って新たなブロック体制を模索しつつある。最近では韓国とEU(ヨーロッパ連合)がFTAを結んだ(日本はまだである)。
 リーマンショック以降2年余り。世界は「恐慌」(資本主義の不治の病)の悪循環を脱せず、各国で失業者(特に若者の)は増大している。そうした中で、「通貨切り下げ競争」と「ブロック経済化」は強まる傾向にあり、自由貿易体制は危機に瀕し、保護主義・排外主義が強まりつつある。その結果、世界的な市場・資源争奪競争はさらに激化していく。この間の尖閣諸島をめぐる日本と中国の対立激化もその一つの現れである。

(6)

 戦前には、世界恐慌後の失業者増大、経済ブロック化、保護主義・排外主義の強まりの中から、右翼・ファシズム勢力が世界的に台頭した。1933年にはドイツでナチスが政権をとるに至った。日本は1932年には「満州国」建国、5・15事件などを起し、1933年には国際連盟を脱退している。
 同じような事が、再び最近、多くの国々で起きつつある。
 フランスでは、ロマ人(いわゆるジプシーといわれる人々)の強制送還(ルーマニアへ)やブルカ禁止法(イスラム教徒が顔を含む全身を覆い隠す「ブルカ」などの衣装を公共の場で着用することを事実上禁止した法律)などの問題が起きている。
 日本では、高校生への授業料無償化を朝鮮学校の生徒だけは排除するという事態が起きている。
 また、アメリカでは最近、人種差別・排外主義を標榜する保守派市民運動「ティーパーティ」が急速に台頭してきている。この「ティーパーティ」は、2009年から始まった「保守派の草の根運動」と言われている。彼らの主張は、<小さな政府><人種差別><不法移民排斥>などである。彼らは、ワシントン行進から47周年になる今年8月、あえてキング牧師の演説記念日に、あえてワシントンのリンカーン記念堂前で、大規模な集会を開いた。9月には、11月の米中間選挙の候補者を争う共和党のデラウェア州予備選で、女性候補クリスティン・オドネル(41歳)が、元州知事で共和党主流派が支持するマイケル・キャッスル下院議員(71歳)に競り勝つということまで起った。つまり、共和党の有力者さえ敗れているのである。11月の米中間選挙はどうなるか注目しなければならない。

(7)

 以上見てきたように、「歴史は繰り返す」――である。しかし、もしこの言葉が正しければ、その先にあるのは、一時的なファシズム支配と悲惨な戦争、その後にファシズムの崩壊と新しい世界の誕生となるであろう。であるならば、私たちはそのために、今から世界恐慌の下で苦しんでいる世界の人々と連帯を強め、ファシズムや戦争に反対する<レジスタンス>や<人民解放運動>を作り上げていく必要があろう。

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映画『ANPO』についての雑感

(T_T)0477(千葉高教組東葛支部「ひょうたん島研究会」)

 もう、かなり旧聞に属する9月26日(日)昼前、渋谷の映画館アップリンクで、今年44本目の映画として、リンダ・ホーグランド監督の『ANPO』を観た。
 サブタイトルというか、キャッチコピーというか、「僕は戦争が嫌だ、あんな馬鹿なことを絶対にしたくない。/あの熱かった時代の日本をアーティストたちはどう表現したのか」という言葉を読めば、それなりに内容は想像できると思う。
 映画が始まってすぐ、我が(T_T)族の一員である武満徹が作曲した『死んだ男の残したものは』の歌無し演奏が流れる。そしてこの曲は、この映画の通奏底音のように繰り返される。武満について、監督のリンダは、次のように書く。

 武満徹さんは映画には出演していませんが、実は本編に武満さんの作曲した「死んだ男の残したものは」を脚色したメロディーが何回か流れています。
 武満さんとは生前、彼の映画音楽をテーマにしたドキュメンタリーのスタッフとして知り合い、大変感動しました。その作品が完成した直後に武満さんは他界されましたが、インタビューの中で、戦時中、学徒動員の疎開先で、友達に勧められて、押し入れの中で、当時禁じられていたフランスのシャンソンを聞いて、「この戦争を生き延びたら、絶対に音楽家になる」と決心された瞬間のエピソードが忘れられません。
 「ANPO」を企画中、親友から武満さんがベトナム戦争中に書いた反戦の歌がぴったりだと勧められ、初めて聞いた時、武満さんの戦争を毛嫌いする気持ちは一生続き、亡くなった今日にも響き続けていると深く感動しました。
(略)(「上映プログラム」より)

 サブタイトル「あの熱かった時代の日本をアーティストたちはどう表現したのか」の通り、映画には何人もの芸術家が登場するのだが、ここでは、ぼくの印象に残った数人についてだけ、雑感を書く。
 まず、横尾忠則。「1970年に米『TIME』誌に表紙イラストを依頼され、佐藤栄作を書いた。星条旗みたいなシャツを佐藤に着せたのだが、アメリカが日本の首相の首を絞めている──みたいな理由で、掲載を拒否された。」
 串田和美(かずよし)。串田については、実はぼくにとっては、父親の孫一の方が付き合いは古い──といっても、会ったことは当然なく、かなり昔、『朝日』に連載されたコラム「自然の断章」を読んだというだけの付き合いだが。
 その和美、60年安保の時は高校生。「授業中に、校庭から教室に向かって、『デモに行こう!』と呼びかけた。そしたら、先生が出てきたので怒られるかと思った。でも、怒られなかった」。映画を観てから半月も経ってしまったので記憶が定かでないが、「怒られなかった」だけでなく、たしか一緒にデモに行ったのだと思う。
 石内都、写真家。横須賀出身で、映画の中で、監督のリンダを「どぶ板通り」に案内する。子どもの頃、「米兵で危ないからどぶ板には行くな」と言われたとか。石内は08年に写真集『ひろしま』を刊行し、ぼくはそれを買い、読み、その直後に行ったヒロシマで、写真集と同じ内容の展覧会を観た。
 石川真生(まお)、同じく写真家。たしか少女暴行事件のあった95年の翌年ぐらいに、早稲田・日本キリスト教会館で行なわれた集会で、彼女を初めて見た。映画でも、語り口は全然変わらない。彼女のウチナー口風(ぐちふう)の語りを聞くと、内容の重さにもかかわらず、癒やされてしまうが、それも困ったものだと思う。
 加藤登紀子。映画の中で、これまでの生き方を振り返った歌──みたいなのを、少しだけ歌っていた。映画とは何の関係もないが、10月19日(火)夜、加藤と連れ合いの藤本敏夫を描いた芝居『青い月のバラード』を、六本木・俳優座劇場に観にいく。楽しみである。
 紙幅も尽きたので──というより力が尽きたので、これくらいで止(や)める。60年安保については、ぼく、ワインを飲んでいるおじいちゃんの膝の上でTVを見ていたあの男と同学年なのであまり記憶はないが、興味は持ち続けていた。「安保反対!」というのは、ぼくが最初に覚えた「四文字熟語」かもしれない。

(10/10/10早朝)

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